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金船号を手に入れた山片が最初にしたことは、まずは馬具をしつらえることであった。何しろ金船号は体が大きく、普通の馬具では腹帯すら回らない。どうしても馬体に合わせた馬具を特注せねばならず、彼はしばらく放牧に出されることとなった。
打ち合いの訓練にまさか馬具なしで騎乗するわけにはいかないからではあるが、山片には別の目論見もあった。
「百姓家の狭い馬小屋に入れられていたのだ、脚を鍛えるためにもしばらくは好きに走らせてやるが良い」
八ヶ岳のふもとに放された金船号は、いかに奔放な性格であるかを余さず人に見せた。
この馬、よほど走ることが好きなのか、日に何度も蹄の音をとどろかせて草地の隅々まで走り回る。馬体も大きく歩幅も大きな彼が本気で走る音はドドッ、ドドッと地響きに似て爽快であった。
しかしそれ以外の日常は、馬としては奇行が多い。気が付くと草地にごろりと身を投げて砂浴びを楽しんでいる。かと思えば気まぐれに起き上がって草を食み、その合間に何を思ったか舌を出しておどけた顔をする。
そしてこの馬、驚くほどに人好きでもあった。
賢い馬なのだから、人の好き嫌いは激しい。自分の気に入らない人間であれば、たとえ竹田の御家老であろうとたてがみ一本触らせはしない。だが気に入った人間が相手であれば、甘ったれて袖を引きちぎるほどじゃれてみたり、撫でてくれと言わんばかりに鼻先を差し出したり、ともかく構ってもらいたがる癖がある。
金船号のお気に入りは馬取りの太郎彦という少年であった。この少年は気立てが良く、馬取り仲間からも「タロヒコ、タロヒコ」と呼ばれて可愛がられていたが、金船号はこの仲間たち以上に少年を溺愛していた。
朝、金船号はタロヒコ少年が馬房に来る時間をじっと待つ。想い人を待つような人待ち顔で。
別にタロヒコ少年が来たからといって優しくするわけではない。いきなりべろりと舌を出したおどけた顔で脅かしたり、飼い葉おけを抱えた少年の背中を鼻先で押して泥の中に転ばせたりと、実にくだらない悪戯ばかり仕掛ける。しかしタロヒコ少年は金船号を叱ったりはしない。偉いお武家さんの馬だからという遠慮もあるが、それ以上に金船号が甘ったれた性格であることを良く知っているのだ。
例えばこの馬は、嫌いな相手にはいたずらなど仕掛けたりしない。シジミのようなかわいらしい目を、ここぞとばかりに吊り上げて相手をにらみつける。下手に手を出せば威嚇のために、およそ馬らしくない奇妙な悲鳴を上げてたてがみを振り揺らす。人だけではなく馬相手でも好き嫌いが激しく、自分の気に食わない馬を見かければ、どんなに遠くからでも駆け寄って蹴りつける。
これだけ気性の激しい馬が、いたずら小僧のような顔でじゃれついてくるのだから、タロヒコ少年はこの馬がかわいくて仕方ない。まだ少年の年である上に心優しいのだから、つい甘やかしてしまうのだ。
それ故に金船号はタロヒコ少年によく懐いていたし、山片が金船号の仕上がりを聞くために呼び出す相手も、この少年であった。
暫くして、タロヒコ少年は山片の家へ呼ばれた。まだ年端もいかぬ少年だということで縁台に駄菓子と茶を出しての簡単な面会ではあったが、ただの馬取り相手としては異例のもてなしだ。
山片は少年が委縮しないように、気安く笑って見せる。
「さて、金船号なんだが、調子はどのようかね」
タロヒコ少年は学はないが誠実である。かなり緊張しながら、それでも自分の知っている限りのことを話そうと努力した。
「まず、へえ、オラが時々のっかって人になれさせようとしとるけども、そんなのいらないくらい人を乗せることに慣れとる馬です。それにちゃんと加減して走ることを知ってござる」
「加減するとな。あの馬は他の馬に比べると脚が速いと聞き及んでいるが?」
「加減してそれでごぜえますわ、馬の顔見りゃわかる。金船号はいつでも余裕を残して走ってる、オラが馬具もなしに乗っているから、いっとうの力で走ったら振り落としてしまうことを知ってるんですございましょう」
「ならば、馬具が揃えばもっと早く走ると」
「さようでごぜえます」
「なるほど、賢い馬であるな。その分、人馬を見下し意地悪をするという噂もあるが、それは本当か?」
「それは……」
タロヒコ少年は膝の上で手を組んで、落ち着きなく親指同士を擦り合わせた。
「あの、キンのやつを叱らないでやってくだせえね」
「叱るもんか、いいから言ってみなさい」
「誰にでも意地悪をするわけじゃないですだよ、自分のことを嫌っとるやつをよう見抜いて、そんで仕返しをするんです。こないだ蹴られて怪我した爺様は、キンのことを『モノノ怪』って言ってバカにしたんで、仕返しされたんでさぁ」
「モノノ怪か、たしかに金船号は賢すぎるゆえか、そのように誹られていると聞き及んではおるが」
「モノノ怪なんてとんでもない、あれは賢いだけの、ただの馬ですだ。人懐っこくてわがままな、ただの馬です!」
「わかっておる、ワシとてあれが本当にモノノ怪だとは思っておらぬ。ただ、変わった馬ではあるな」
タロヒコ少年がほっと胸を撫で下ろすのをみて、山片は笑った。
「お主は、ワシがあれを『おのれモノノ怪、成敗してくれるわ!』などと斬り伏せると思ったのか」
「恐れながら」
「そんなことはせぬ。モノノ怪という渾名も、あれが戦馬であることを考えれば賛辞よ」
山片がカラカラと声をあげて笑うから、タロヒコ少年は心底から安心した様子であった。
山片はそんなタロヒコ少年に言った。
「あれのための馬具も近々仕上がってくる、そうしたら試しに走らせてみたいと思っている、本気でな。そのように仕上げておいてくれぬか」
タロヒコ少年はぴょんと立ち上がると何度もうなづいた。彼は主人が大事な馬を任せてくれたことが嬉しかったのだ。
だからタロヒコ少年は、山片邸を出ると真っ直ぐに走って金船号のところへ行った。




