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やがて九月の終わりになって、竹田軍は箕川に向けての侵攻を開始した。表向きは足鹿賀良明の出した小田延長討伐令に応じた形である。
近年、めっきり力をつけた小田氏は、いまや上洛して将軍である足鹿賀氏の座を脅かさんとしている。これを恐れた足鹿賀氏は、三野の小田延長を討たんと命を下した。
此度竹田軍が三野ではなく箕川を目指しているのは、まずは小田の同盟である禿川氏を攻略し、箕川を足掛かりに三野へと進もうという腹づもりである。この時、禿川の軍勢一万五千に対し、竹田の軍勢は三万――圧倒的な戦力差で一気に畳みかける総攻撃であった。
竹田氏はこの三万の兵を三隊に分け、自ら率いる本体は品野を通って上から、安芸山氏率いる一隊は駿誐を通って、そして山片氏は等々巳を通って箕川に乗り込もうと目論んだ。
もっとも、それが将軍に対する武田の忠誠なのか、それとも別の腹づもりがあるのか、そんなことは末端の足軽である太郎彦には知れない。彼はただ行けと行かれれば行く、退けといわれれば退く、盤上の駒に過ぎぬ。太郎彦は山片隊の足軽として等々巳を目指す軍列にいた。
三万というのはその時の竹田軍勢の総動員数である。対する禿川の軍勢一万五千、圧倒的な戦力差によって捩じ伏せる総攻撃作戦である。
そんな中、太郎彦と金船は山片隊五千の兵の中にいた。
野山にはちょうどワレモコウの咲く季節で、天に向かってついついと伸びた無数の花茎の先に実る赤い花穂が山片隊の行く道を彩っていた。
蹄は花茎を踏み荒らし、具足は花穂を散らし、そして遠征の荷を積んだ車はそれらを土に帰すほど踏みつけた、これが禿川の命運だと言わんばかりに進む。哀れなワレモコウを気に留める者は誰もいない。誰もが竹田軍の勝利を信じて疑わなかった。
ただ、太郎彦だけは……彼は戦勝の予感に浮かれる足軽たちを馬上から諫めた。
「浮かれるなよ、これは戦なんだから」
槍を背負った足軽たちは、金船の足元をひょいひょいと歩きながらも陽気な声を上げる。
「そんなこと言ってもよお、太郎彦様、ウチの勝ちは決まったようなもんだべ」
「勝ち負けじゃなくってだ、死人の出ない戰なんてないんだから、浮かれていると自分が死体になるぞってことだ」
それはもちろん、太郎彦も同じこと。一度戦場に出れば、誰がいつ命を落としてもおかしくない。
太郎彦はふと遠くを見た。遠く山を背負った小さな集落が見える。ちょうど晩稲の実るころ、集落を囲む田は黄金色に輝いていた。
(ああして土を起こして生きるのも悪くないかもしれない)
子供の頃は「侍になるんだ」と無邪気に夢見た太郎彦ではあったが、いざ戦場に出てみれば、自分は戦いに向いていないと思い知ることも少なくなかった。元が心根の優しい太郎彦は人を斬ることも、斬られることも好きではないのだ。
それでも戦場に出れば、斬らねば斬られる切った張ったの勝負を要求されるわけで、太郎彦はこれが苦痛になりつつあった。
太郎彦は金船の耳に口寄せてささやく。
「なあ、キン、この戦いが済んだら、山片様に話してお暇をもらおう、どうせお前はおらにしか乗れねえんだし、一緒に百姓になろうや」
金船は体格も良く、馬力もある。きっと農耕馬としても優秀だろう。
「厩は立派なのを建ててやる、それに普通の農馬みたいに小屋と畑の行き来だけで終わらせんで、野がけにも連れてってやるで、好きなように走ればいい」
生活は少し苦しくなるだろうが、戦場で血塗れるよりも、どれほど穏やかであることだろうか。
「なあ、キン、お前だってその方がいいだろう?」
きっと気まぐれな金船は農作業をサボる日もあるだろう。そんな日は放牧に出してやればいい。なにも金船をガツガツ働かせてやろうと目論んでいるわけではなく、ここまで戦いに身を置いてばかりだった金船に静かな余生を与えてやりたいと願っての言葉だった。
しかし金船の方は耳をぶるぶると振って太郎彦の言葉を拒絶した。
宿敵と決めた鹿毛馬との再会も果たしていないというのに、老い馬として無為に余生を食いつぶして生きるつもりは無い。金船が求めているものは、血の一滴まで乾きあがるほど激しい戦いである。
そんな金船の願いを知っているかのように、その夜遅くなって、山片隊のもとに風雲急を告げる早馬がたどり着いた。
「恐れながら! この先進路を変え、至急石村城へ向かうべしとの命にございます!」
伝令の男は少し興奮して声高に告げた。




