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少年だったタロヒコはすっかり青年へと成長した。今では十人ほどの足軽をまとめる足軽頭である。
名前も、いまは『田島太郎彦』を名乗っており、みんなからは『太郎彦』と呼ばれている。彼を気安くタロヒコと呼ぶのは昔の馬取り仲間と山片くらいなものだ。
そして金船も、古馬と呼ばれる年になっていた。灰色だった体は白味がまし、ガチガチだった筋肉も僅かに柔らかくなった。しかし戦馬としてはもっとも脂の乗った年頃である。
若いうちは体力に任せてガツガツと走っていた金船も、この頃は駆け引きというものを覚えた。元々が現代競馬での経験を記憶として持って生まれたのだから、そこに戦場での七年分の経験を上積みして、とてつもなく賢しい馬に成長したわけである。
彼の走りは独特であった。敵方に強い馬がいればこれの背後にピッタリつけて煽り、体力を削り、いいだけ疲れさせた後で一気に追い抜いて調子を狂わせる。壮年ゆえの知略と体力があってこその戦法ではあるが、金船はさらに体格にも恵まれていた。
自分より遥かに体の大きな馬に背後から追われて動揺しない馬はいない。馬の背に乗る武者たちもまた、地を踏み破るかという大音響で響く蹄の音を背後に聞いて落ち着かなくなる。戦場での金船は無敵であった。
こうなると三ノ輪であい見えた鹿毛馬がますます恋しくなる。あれほどの落ち着きと強さを感じる好敵手には、未だ他に出会えていない。金船は何度も何度も、あの馬と競う夢を見た。
それは時に戦場であったり、時には中山のターフであったりした。二匹並んで立ち、スタートの時をいまかいまかと待ち構えている夢だ。
空はいつでも青く晴れ渡り、風は強く吹いている。レース前の緊張を宥めるように、風が鼻先を撫でて通る。
しかし、いつになってもスタートの合図は鳴らない。法螺貝も吹かれなければ、ファンファーレが鳴り響くこともない。二頭はスタート地点に立たされたまま――
金船は、これに焦れて目を覚ます。時間は明け方で、空にはまだ星が残っているような時間だ。馬房の隙間から星を見上げて、金船は「ブフン、ブフン」といくつも鼻息を吐く。
馬房に入れられた若駒たちは金船を恐れている。だから、金船が起きて鼻息を吐く音に色めきたって時ならぬいななきを立てる。ともかく馬房の中は大騒ぎになるわけだ。
夜番の馬取りがこれを聞きつけて宥めにくるが、寝ぼけている金船は暴れるものだから近づけない。時には馬房の壁に体当たりをして、さらに若駒たちを怯えさせる。ここのところ、それが頻繁であると聞いて、太郎彦は馬房の近くに泊まり込むようになった。馬取り時代に暮らしていた小屋に寝泊まりして、金船が暴れたらすぐに駆けつけられるようにしたのだ。
その日も、金船が暴れたという知らせを受けて、太郎彦は馬房に駆けつけた。空の下の方はぼんやりと桃色の光を帯びているが太陽はまだ頭すら出していない早朝のことであった。
太郎彦はまず、馬房の柱をガンガンと叩いて金船を起こした。
「キン、おい、キン、おらを見ろ」
太郎彦だって、馬がどんな夢を見たかまでは把握していない。それでも雰囲気で金船が『嫌な夢』を見たのだなと察した。
「おい、キン、ちゃんと目を覚ませ」
金船はくりくりした目をぱっちりと見ひらき、太郎彦を見下ろした。
「そうだ、いい子だ、キン、わかるな、軽く走ってこよう」
太郎彦は金船を表へ引き出した。遠く甲府の山が朝もやにけぶっている。夢と同じように、風は強く吹いていた。
「どう、キン、どう、どう」
なだめながら手綱だけを噛ませて、太郎彦が金船の背に乗る。近場で軽く足慣らしするだけなら、これで良かろうと考えたのだ。
金船はすっかり落ち着いて、朝もやの中をポクポクと歩き始めた。その耳に、太郎彦が言葉を吹き込んだ。
「なあ、キン、近々大きな戦がある」
人の感情を読む馬という生き物は、たとえ言葉の意味は解らずとも、こうした語り掛けでだいたいのことを察するものだ。
「竹田の殿様は三野を攻めようと考えておられる、きっと大きな戦になる。おらたちも、戦に行くことになるだろうな」
戦になら何度も行った。それでも太郎彦も声音がただならぬ気色を帯びていることから、金船は今回の戦がこれまでよりも苛烈なものになるだろうと感じていた。並足だった足元が軽い駆け足に変わる。
馬上の太郎彦は、カラカラと声をあげて笑った。
「お前は、なんにも怖くないんだなぁ!」
実際に、馬である金船には戦に対する恐れなどない。血の匂いは好ましくないが、押し寄せるほどの人で溢れた戦場も、敵を圧倒するためにあげられる歓声も、何も怖くはない。そもそもが馬である彼が人間が勝手に起こした戦争の意味を考える必要などないし、それに臆する義理もないのだから。
しかし太郎彦の方はそうではない様子であった。
「おらは、キン、お前みたいにはなれないな、今でも戦場が怖いんだ」
太郎彦は人間だ、だから欲もあれば夢もある。彼はつい先だって嫁をもらったばかりだ。近くの農家の娘で、働き者でよく笑う可愛らしい嫁だ。この嫁を残して戦に行くのだと思うと悲しくなる。
「戦で死んだら、嫁はどうなるんだろうとか、おっかあはどうなるんだろうとか、どうしても自分が死ぬことをかんがえちまう、縁起悪いからやめようと思うんだけど、どうしてもな」
それは人間としては当然の気持ちであるが、馬である金船に理解できるような簡単な気持ちではなかった。
「なあ、金船よ、おらあ、やっぱり馬取りでいた方が良かったんだろうか」
それこそ、馬である金船にはどうでも良いことだ。かの馬は明け暮れの空に残った星を見上げて黙っていた。
朝靄が洗った空気は澄み切って清浄である。香るのは踏み潰した草の青さと、どこかの庭先に咲かした鳳仙花の赤。
しっとりと水気の多い牧歌的な空気を嗅ぎながら、金船は思っていた。
(戦いの匂いがする)
強く吹く風の中に、火縄の匂いを感じるような気がする。血を吸って具足でかき混ぜられた土から立ち上る熱気や、人々の不安の気配も。そう言ったものが渾然一体となった時に感じる戦馬の匂いが遠くから匂ってくるような、そんな気がしてならないのだ。そして、その匂いは、あの鹿毛馬の面影を金船の心の中に運んできた。
じき、あの馬に会えるような気がする、と金船は思った。きっとあの時よりも強く、賢く、そして手強くなっていることだろう。その姿を瞼の裏に思い描くだけでゾワゾワとたてがみが逆立つ。
(もうすぐ、もうすぐ……)
二頭はあの夢の中のように並んで立つだろう。そして法螺貝が鳴る。人間たちがあげる気合いの声の中を、風のように、早く、ただ早く……あの鹿毛のよりも早く!
背上の太郎彦とは違い、金船の心はすでに戦場へと向いていたのだった。




