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その馬は、中山のターフを駆ける夢を見ていた――
芝2000メートル、重賞レース、晴れてはいるものの明け方まで降っていた雨のせいで馬場はやや重、つまり荒れている。
その馬は、スタートしてすぐに馬勢を抑えて最後尾につけた。レース後半まで他の馬たちのケツを悠々と眺めながら走るこのスタイルが、彼は好きだ。
彼はスタンドにわっさりと並んだ人間たちが「おおー」とどよめく、その声が好きだ。そしてこの最後尾から一気に先頭に躍り出れば、そのどよめきはひときわ大きく鳴り響いて彼をたたえる。その瞬間がたまらなく好きなのだ。
3コーナー手前に差し掛かり、他の馬たちが尻をだくだくと振りながら表に膨らむのが見えた。内は雨でぬかるんで蹄を置くには頼りない。転倒を避けて安全にレースを運ぶには、インコースを避けるは当然のセオリーなのだ。
しかし彼は、走りたかった、ただ、もっと早く、もっと強く。
そして鞍上の騎手は、そんな彼の気性と脚力を存分に承知していた。手綱は迷うことなく、彼は己の本能のままに湿った芝を蹴ってインコースに入った。いままで眺めていたケツを次々と追い抜き、馬群を抜けて先頭馬のすぐ後ろにぴたりとつける。
ただ早く、もっともっと早く――前を行く馬が首を上下に振って必死に走っている。それよりも大きく首を振って、大きな灰色の馬体は、ついに先頭に躍り出た。あとは他の追随を許さず、後続馬たちをぐんぐん引き離して走る。
ただ、早く、もっともっと、ひたすらに早く――
世は戦国の時代――山片正影はとある農家の馬小屋の前に立っていた。
彼は加井の竹田氏が家臣である。つい先日、品野の国を攻めるにあたって華々しい功績をあげた褒章として藍備えの騎馬隊を与えられた若武者であり、ここへは自分の愛馬となるかもしれない『馬』を見に来た。
「いや、まず気性の荒い駒っこなんで、お役にはたてねぇと思うんですがねえ」
前置いて戸を開けた百姓の肩越しに馬小屋を覗いた山片は、まずはその場体の大きさに驚いて目を見張った。
「これはこれは……」
並の馬より二回りは大きい。藍備え隊の侍大将であったおじのもとで幼いころから馬に慣れ親しんだ山片でさえ、この大きさの馬を見るのは初めてだ。
しかもこの馬、肉付きが良い。肩周りや尻周りは固そうな筋肉でむっくりと盛り上がっており、見るからに強そうだ。それに毛並みも黒い肌に白毛をかぶった見事な芦毛馬であり、パッと目を引く。
山片はこの馬が一目で気に入った。
「これをもらい受けよう。そちらの言い値で良い」
迷うことなく言う山片に、しかし百姓のおやじは首を横に振った。
「いやいや、確かに見てくれは立派なもんですが、ともかく気性が荒い。馬鍬につなごうとすると暴れまわるし、ならば荷役に使おうかとすればのっけた荷物を全部振り落とす、ともかくとんでもなく聞かん気の強い馬でして、こちらとしても始末に困ってるんで、お代はけっこうです。その代わり、ここに戻ってこないようにしてくださいよ」
「そんなにか」
山片は馬の面を見る。ちょっと目の奥まったおどけた顔をしている。
だからといって馬鹿そうには見えない。むしろいたずら好きな幼子のような愛嬌がある。
「これはおそらく、賢すぎるのだろう」
「へえ、このバカ馬がですか?」
「お主はそういう悪口を言う相手だとこころえている、だからいうことなど聞かぬのだ」
「さようで」
山片は、馬の鼻先をゆるりと撫でた。馬は大人しく山片の手のひらに鼻先を押し付けて、甘えたように鼻を鳴らした。
「そうか、お主、走りたいのだな」
じつに、それこそがこの馬の望むただ一つの願いであった。
この馬は遠く、おそらく未来の夢を何度も見る。うんざりするほどたくさんの人間を詰め込んだスタンドを背に、ただ早く、もっと早くと願いながら走る夢だ。
その夢はとても心地よい。「わーわー」と無意味に鳴り響いていた人間たちの声が、自分がトップに躍り出た瞬間に「おお~」と低くうなる大音響に変わるあの快感は、何物にも代えがたい。
しかし不幸なことに、農耕馬として生まれた彼を走らせてくれる良き騎手は今日まで現れなかった。彼は馬鍬を蹴り倒し、荷を振り落として暴れたが、それは農耕のために馬を飼う百姓家では嫌がられるばかりであった。
しかし彼は見てくれが他より大きな、体躯だけならいわゆる名馬である。だからこそ山片の耳にこの馬のうわさが届いたのだ。
「確かに、これほど人を見る馬では農耕の役には立たぬであろう。しかし戦馬としては必ずや名をあげるに違いない」
山片の言葉にも、百姓のおやじは半信半疑である。
「へえ、そうでございますかね、あっしにゃあそうは思えませんが」
この親父は、この馬が役に立たないからといって返されることを恐れているのである。
「なんでもいいんで、ともかく連れて行ったなら、二度とここへは戻してくださりませんよう、それだけはお願いいたします」
「なんで戻すもんか、むしろこれだけの馬をただでもらっては面目が立たぬ、後日、相応の金子を屋敷の者に届けさせよう」
「ありがたいことで」
こうして、この馬は山片のものになった。彼は馬小屋から引き出され、初めて自分の新しい主をまじまじと見た。
この馬にとって、良い主人とは『自分を走らせてくれる人』であるべきだった。山片は、どうやら彼の望みに見合う人物であるらしい。
「良い馬だ、走らせて帰りたい。ここに馬具はあるか?」
「いえ、ここは百姓家だで、そんなものは」
「ならば裸で乗ろう、ともかくこの馬は走りたくて仕方ないらしい」
「こんな暴れ馬に馬具もつけないで、それはさすがに無謀では」
「なに、暴れ馬などではなかろう」
山片は手近にあった桶の底に足をかけて、ひょいと馬の背に飛び乗った。馬は暴れもせず、おとなしく山片を背に受けた。
「うむ、名馬であるな、人を乗せるのは初めてであろうに、まるで長く乗り馬であったかのような落ち着きようだ、気に入った」
山片が軽く馬の首をさする。
「しかし、本当に大きいな、まるで船に乗っている様だ。お主の名は『金船』にしよう、わが藍備えに朝日のような金を運んでくる縁起の良い船ということだ、良かろう、『金船号』よ」
馬は、なんだか遠い未来で聞いたような気のする名前だと思った。しかし走ることができるのならば、名前などなんと呼ばれようが構わなかった。
彼は軽くいなないて山片を満足させた。
「そうか、気に入ったか、これから存分に走らせてやるぞ、『金船』よ」
こうして、現代の競走馬の生まれ変わりであるこの馬は、山片正影の愛馬となったのである。




