目蓋の裏の世界
グワンと天地が引っ繰り返ったような感覚に襲われ、青銅はこれが眩暈であることをすぐに悟った。世界が大きく揺れた後、彼の視界には疲弊しきったスーツ姿の人何百人もの人間たちが映った。みな眉をハの字にして、目には落ち窪んで鈍い光を宿らせている。面白いくらいにみな猫背で、鉄のように重たい足を引きずらせるかのような重たい足取りで歩いている。
「良くないさ。こんな時代」と一人は言う。
「今も昔も変わらないさ」と一人は言う。
「時代が移っても、ダメなもんはダメなのさ」と一人は言う。
ふいに一本のロープが垂れてきて、そこから赤い仮面をつけた男が降りてきた。今にも「レディースエンドジェントルメン」と高らかに叫びそうな容貌だった。青銅は彼の渾名を瞬間的に「司会者」に決めた。
「君は何も判っちゃいない」と司会者は青銅に言った。
「ぼくは何も判っちゃいないね」青銅は言った。
「そうさ、君は何も判っちゃいない」肥満体の男がいつの間にか青銅の隣に現れ、ポテトチップスを食べながら言った。
「君に言われたくないさ」と青銅は言った。初対面の人だったが、何となくこの太った男にとやかく言われるのが嫌だった。
「ぼくなら構わないだろう?」司会者は言う。
「そうだね」
「君は何も判っちゃいない」
「そうだね」
「だけど、人々の顔がこんなふうに思ってしまっている」
司会者は何百もの疲れ切った顔に手を向けて言った。
「そうだね」
「君が思っている以上に世界は素晴らしい」
「そうかもね」
「でも、君が世界を好きになれないのはこの顔のせいだね」
「そうだ」
「でも、君は世界を知らない」
「そうだ」
「君は世界を知れば、きっとこんなふうには思わないだろうね」
司会者は指を鳴らした。パチン。瞬間、何百もの顔が一瞬にして消え去った。
「そうだね」
「黒いカンバスは嫌いかね?」
青銅の周りは暗闇で満ちていた。
「嫌いだね」
「なぜだい?」
「何も描けないじゃないか!」
「真っ白で塗りたくればいい」
「いくら頑張っても灰色止まりだと思うけど」
「いや、もっと頑張れば、世界を白にできると思うけどね」
「無理だよ」
「できるよ」
「無理さ」
そして、世界はまた何百もの疲れた顔で満たされる。
「まったく、君は眩暈をしているんだよ? 夢を見ているんじゃない」
「そうだ」
「眩暈の中、君の世界は動いているんだぞ」
「そうだね」
「君の世界が今どうなっているか気にならないのかね」
「ならないね」
「君は世界を知らない」
「そうだ」
「そのくせ、こいつは嫌いなんだね」
いつの間にか、あの肥満体が青銅の隣にいた。司会者はそいつを指さした。
「そうだね」
「よく判らないなあ」
「ぼくも判らないさ」
「君の世界は小さい。こうやって、君は人々の顔を疲れ切ったものだと思っている」
「さっきも聞いたよ、その話」
「いや、言ってないよ」
「え?」
「え?」
「君は眩暈の中にいる」
「そうだね」
「この世界はどうだい?」
「『世界』と名のつくものはすべて嫌いさ」
「そうか」
「そうさ」
「君は世界を知らない」
「そうさ」
「それなのに」
「うん」
「バカだ」
「かも」
「うん」
世界は小さくなる。
この世界は青銅にとってぴったりなサイズなのかもしれない。
こうやって、目蓋の裏に世界を創れば、青銅は簡単にその世界を生き抜くことができる。
未知なる世界は怖いものだ。
全知の世界は頼もしい。すべて判るってもんだ。
「この世界は美しい」
「あくまで君の場合は」
「この世界は美しい」
「『世界』と名のつくものはすべて嫌いじゃなかったっけ?」
「さあ」
いい加減な男だ。青銅という奴は。
「まったく」
司会者は消えた。
いつの間にか肥満体もいない。
黒いカンバスの中、青銅は生きる。
きっと十分後には発狂しているだろうよ。