4 帰りたい葛藤とかもう終わったんで
突然この場所にやって来てから約2年、空は今日20歳の誕生日を迎える。
倉庫にあった同じ年のカレンダーで空はここに来てからの日数を把握していた。
「ようやく豪華なホールケーキの見せ場がきたな」
ふんふんと手動の噴霧器を使用して水をやり、空は庭仕事に精を出していた。倉庫はガーデニング関連の商品も充実していたので少しずつ植える種類を増やしてみたのだ。
ひと段落し辺りを見回すと2年前とは大きく変わった景色。ログハウスを守るかのように設置されたアイアンフェンスにウッドフェンスにネットフェンス。アホの子が深く考えず適当に設置した結果である。
「――どこまで広がるのかこのピンク芝生は」
空は足元を埋め尽くしログハウスを中心に円状に広がっているであろう淡いピンク色の芝生をそっと撫でながらこちらに来たばかりの頃を思い返す。
空がこのピンク色に気が付いたのは倉庫に引きこもってからひと月ほど経った頃だった――
***
外はやばいと野生の本能が訴えるので、空は当初朝の空気の入れ替え時以外は外の風景を目にしていなかった。
ログハウスからは1歩も外に出ていないからだ。家主が戻ってきた場合に備え、玄関前にレジで人を呼ぶチーンとなるやつをそっと設置した時しか扉を開いていない。
聖人の弟子(関係者からランクアップ)としてはお仏壇のチーンが倉庫にあったので――倉庫まじ何でもある――それを設置するか迷ったがさすがに罰が当たりそうなのでやめた。代わりに仏壇と神棚を設置して毎日屋根のある場所でご飯が食べられる感謝を伝えている。場所というか倉庫だが。
空は年長者が言う『イマドキの若者』の例に漏れずお寺と神社の違いがよくわかっていなかった。また身近に亡くなった人もいなかったため余計にそのような知識に疎かった。感謝を伝えるそれっぽいものがあれば空はそれで良かったので、どこの宗教かわからない神具には手を出さず日本人ならではの神具チョイスをしていた。
それはさておき、そういう理由で空は外の景色に注意を払っていなかったのだが、ある朝少し慣れてきたこともあり窓からそっと顔を出してみると、地面が妙なことになっていた。
淡いピンク色の草がログハウスの周りに生えていたのだ。不自然な境目を疑問に思った空は反対側の窓からも地面を確認すると、ピンク芝生はログハウスを覆うように円形に生えているように思えた。
原因を究明しようとはせずに空は「うわ毒かよ倉庫に籠ろう」と余計に引きこもるようになってしまった。
それでもなんとなく太陽なのかそうじゃないのか不明な光は浴びた方が良いのかと、念のため日焼け止めを塗りたくって週に1回は空気の入れ替えついでに窓から顔を出していて発見した。ピンク芝生がどんどん広がっており、背の高い木々が後退していることを。
空は大丈夫かなこれとは思ったが、倉庫内は電気も水道も使用可能だったので倉庫内でそのままのんびり暮らし続けた。なぜ簡単にお湯が出るのか排水はなんて空には関係ない。倉庫入口のゴミ箱にゴミを捨てれば次の日には無くなっているのも関係ない。関係ないこともないのだか関係ない。
そんなある日、ぼんやり窓の外を見ていたらログハウスを囲んでいる森から嫌な音が聞こえてきた。
ザザッと何か大きな生き物がこちらに向かってくるような音に聞こえたのだ。実際日本ではそんな場面には遭遇したことがなかったのであくまでも聞こえた、という話だか。しかし咄嗟に嫌な音だと思った。しかもこちらに来て鳥の鳴き声以外で初めて感じる生き物の気配。久しぶりに空の野生の本能が仕事をした日だった。
すぐさま窓を閉めようとした空の視界に、木々の合間からぼふんと飛び出してきた小さな茶色の塊が映る。そして驚く間もなく何かが物凄い勢いで衝突したような音が。
空は思わず窓を閉める手を止め音のした方に注意を向け、息を殺しながらこれから起こることを待った。
――持ってきていた双眼鏡を覗きながら。
このたまに発揮される妙な動じなさに空は心臓に毛が、というかふわふわした綿毛が生えているとよく母に言われていた。
そして空は見つけた。真っ黒い大きな獣がふらふらと立ち上がろうとしているのを。
その時の空は「獣やべえ」という感想を抱きつつ、そばに置いてあったライフルをすっと構えスコープを覗く。ちなみにショットガンもある。
これらは倉庫内にあったので実際の店舗でも売られているものだと空は考えている。こんなもんさらっと売ってる国やべえとも。
時間だけはあるので空は書籍のコーナーで銃の扱い方をなんとなく学んでいたのだ。あと映画やドラマ。たくましすぎる日本人形である。
撃ったことはないのだがなんとかなりそうな気がしていたら、その大きな獣は激怒したようにがんがんと空中を攻撃しているように見えた。それを見て空はあっと思った。これはもしかして『聖域』なるものが関係しているのではないかと。たまたまそういう映画を見たばかりだったので。
なので空はもちゃもちゃとチューイングキャンディを食べながら獣の動向を見守った。すると7個食べ終わったあたりで獣は諦めて森の奥に去って行った。
さっとスコープから顔を離し先程の茶色を探そうとすると思わぬ近さに茶色の塊がいて驚かされた。窓の真下の外壁にぴたりと寄り添うように毛の塊がいたのだ。
そっと装備をサバイバルナイフに持ち替え茶色を観察する空。いちいち物騒な日本人形であるが指摘する人間はいない。
そして茶色い毛の塊はひとしきりプルプルして獣とは違う方向に去って行った。
察しのいい人間ならこの出来事から聖域(仮定)には悪意を持った危険な生き物は侵入できない可能性に思い至ったであろうが、空がそう結論付けるまでにはここからさらに5か月の月日が必要であった。
引きこもっていたからである。