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(二)ノ3

 今朝の最初の患者は、グライア婆であった。まだ朝も早い時間であるにも拘わらず、待ち合いの玄関ホールにも既に、十人ほどの順番待ちが控えていた。

 アスクレラスの診療所は朝が最も混雑する。丘の上の礼拝堂で朝の祈りを捧げてから、傍らの診療所に立ち寄るのを習慣とする者が多いからである。

 ましてや今朝は、七日に一度の休診日明けであった。オルフェとエウリーケはなんとか朝食を終えられたが、一息をつく間は与えてもらえなかった。

 待ちかねた村人によって、診療所のドアを叩かれるのにはもう、すっかりと慣れていた。


 グライア婆は本人も正確な年齢を数えるのを諦めて久しいようだが、七十を超えているのは確かだ。

 農耕牛を持たぬ老婆は、長い年月を痩せた己の腕だけで畑を耕してきた。日に晒し続けた肌はシミだらけで、膝を悪くし、腰も曲がっている。

 あちこちにガタがきた身体は、いつの間にか一回りも二回りも小さく萎んでしまっていた。

 そんなグライア婆であったが心持ちは元気で、世話焼きな性格も相変わらずである。

 子供の頃からなにかと可愛がってくれたこの老婆のことが、オルフェは大好きであった。


「あれ、まあ!」

 そのグライア婆が突然、大きな声を上げた。彼女の胸を打診していたオルフェは何事かと顔を上げる。

 グライア婆の視線はオルフェから逸れていた。視線を辿ると、部屋をカーテンで仕切った奥へと向けられている。

 その隙間からベッドで眠る女の子に気付いたのだ。

 エウリーケの口が、あっ、という形になった。


 こういう時の老婆の行動は素早い。オルフェが目を戻した時には既に、人体移動の手品のように忽然と席から姿を消していた。真っ直ぐに女の子のベッドへと駆け寄るそれは、日頃の膝の悪さが嘘のような身のこなしである。

「ちょっと、お婆ってば」

 止めるタイミング逸してしまったエウリーケが、慌てて後を追うが、グライア婆の方は既に、興奮した面持ちで女の子の顔を覗き込んでいた。


「愛らしいねえ。先生! なんだい、この子は? どこの子だい? 村にこんな子はおらんぞ」

「まあ、昨日、いろいろあったもので」

「騒がしくしないの。静かにしてあげて、ね?」

 追いついたエウリーケが、背後からグライア婆の両肩に手を添えながら言った。

「いや、しかし、こんな黒い髪、アタシも六十年近く生きとるが初めて見たぞ」

「なにをさらっと年を誤魔化してるのよ。いいから戻って座ろうよ」

 エウリーケは必死に窘めるが、グライア婆は聞く耳を持つそぶりも見せなかった。


 黒髪が珍しいのは確かだ。興味を惹くのも無理はないと、オルフェにも分かる部分はある。

 だがそうは言っても、五歳の女の子にように好奇心旺盛な老婆を好き勝手にさせておいては埒が明かない。オルフェはエウリーケに助け船をだそうと、椅子から腰を浮かせた。

「お婆、エウリーの言うとおりだよ。そろそろこっちに――」

「おっと、こうしちゃおれん!」


 グライア婆はオルフェにも構うことはなく、エウリーケの手から逃れて、またも駆け出した。

 中腰姿勢のオルフェの目の前を、ドタドタと凄い勢いで通り過ぎる。本当に膝や腰が悪いのかと、自らの診断を疑うほどのフットワークの軽さだ。

 ちなみに取るに足らぬことではあるが、診察の最中であったので、グライア婆の胸元は肌蹴たままである。そしてそれを恥じらい、隠すような乙女心はとうの昔に無くしていた。

 老婆は自らの胸元を気にするでもなくドアを開け、待ち合いの玄関ホールへと上半身を乗り出した。


「ちょっと、みんな! こっちに来なさい。珍しいのが見れるぞ」

「ほう」

 真っ先に反応したダミ声は中年男のそれであり、姿は見えずとも鍛冶職人のヘファイトのものだと特定は容易だ。

「なんだ、婆さん。どうした?」

「良いから、入ってきなって。ほれ」


 まるでここは我が家のように振る舞うグライア婆の手招きに、まず最初に姿を見せたのが、やはり先ほどの声の主、ヘファイトであった。

「婆さん、しまえよ、それ」

 厳めしい髭面に呆れた表情を浮かべて、老婆の肌蹴た胸元を指さす。

「おっと、坊やどもには刺激が強すぎるか?」

「ぬかせ」

 ケッケッケッとアカゲラの鳴き声のように笑うグライア婆と軽口を交わし、ヘファイトは大きな図体に麦酒エールで突き出た腹を揺らしながら、びっこを引いて診察室へと入ってきた。

 巨躯の影に隠れる様に続いたのが、付き添いであろう息子のエクニオス。まだ十四歳の彼は、ヘファイトのような逞しさはなく、小柄で気弱そうにいつもオドオドとしている。

 さらには居酒屋を営む角ばった顔のエウパボ。四十台半ばと彼もまた中年ではあるが、こちらはヘファイトとは違って腹は出ておらず、筋肉質の引き締まった体をしている。一見では健康なようでも、毎日、大量で重い麦酒エールを運ぶことを強いられ、腰を悪くしており診療所通いが続いていた。


 その後からも続々と村人が入ってきて、グライア婆は「ほれ、アンタも早う来なさい」と、結局、待ち合いに控えていた十人ばかり全てを呼び集めてしまった。

 女の子のベッド周りはたちまち黒山の人だかりとなり、オルフェはため息をついて再び椅子へと腰を落とした。

 こうなる気がした。だからカーテンで仕切って隠していたのだが、まさか一人目の患者で見つかってしまうとは。グライア婆の目ざとさを侮っていた。


「可愛い……。お人形さんみたいだ」

 エクニオス少年が頬を染めたのは別として、他の村人の反応は概ね、グライア婆と同様だ。もの珍しさに興奮し、やいのやいのと騒ぎ立てる。

 繰り返される日常の生活の中にあっては、こうした変化のある出来事に人は飢えるものだ。

 女の子を安静に保ちたいエウリーケは「みんな、ちょっと、コラ、ダメだから」と必死に注意する。ただ、それを聞き入れる者などいない。

 エクニオスが呆けた表情で、女の子の唇へと指を伸ばそうとすれば「そこ! 触ろうとしないの」と、すかさず少年の手首を掴んで止める。彼女がフラストレーションを溜めているのは、傍から見ても分かった。

 これは良くない傾向だ。

「いい、いい……」

 エウリーケの両肩がふるふると震えた。オルフェは、あっ、と思ったが、もう遅かった。

「いい加減にしなさーいっ!」

 遂にエウリーケの堪忍袋の緒が切れた。オルフェですらかつて聞いたことのない大きく張り上げた声に、その場にいた人間の殆どが、ぴたりと動きを止めた。

 その中にあって、ヘファイトが毛むくじゃらの口に、しーっと人差し指を立てる。そしてエウリーケに咎めるような目を向けた。

「大きな声を出すな。起きたらどうするんだ」

「なっ!」

 エウリーケは絶句した。飲み込んだ言葉は「なんて理不尽な」であろう。

「それにしても」と、グライア婆が目を丸くして言う。

「あのエウリーが怒ったぞ」

「おお、言われてみればそうだな」

 ヘファイトがそれに同調した。

 すると、他の者たちも興味が移り、次々とエウリーケへと振り返る。

 診療所に静寂の間が落ちた。それは再び訪れる嵐の前触れ。


「こりゃ、また珍しいものが見れたな」

 エウパボが厳格な中年男らしからぬはしゃいだ声を上げる。

「ああ、まったくだ」

「オレは初めて怒られたぞ!」

「うん、村のみんなにも教えてあげなくちゃ」

「もう一回だ。もう一回怒鳴ってみてくれないか? なあ、頼むよ」

 若干名、別の意味で興奮した者も混じっているようだが、日頃は穏やかで、気立ての優しいエウリーケの剣幕に、今度はこれを珍しがる始末である。

「あの、出来たらもっと、蔑むようにお願いできますか?」

 村人たちの喧騒の中で、エクニオス少年が遠慮がちに口にしたのをオルフェは聞き逃さなかった。この子は、なんだか危ない。

「あ、いや」

 押し寄せてくる村人に、エウリーケは両手を突き出すようにして抵抗するが、荒波にさらされた小さな漁船のようなもので、とても手におえる状態になかった。

 困り切った彼女は普段は細めている目を見開き、オルフェに視線を送って助けを求めてきた。若干、涙目になっている。

 すると村人たちもその視線を追って、一斉にくるりと首を捻り顔を向けてくる。

 オルフェは「うっ」と、唸った。矛先をオルフェへと変えた彼らの双眸は、爛々と輝いていた。

「分かりました」

 オルフェは諦めた。もはや診療どころではない。事情を説明しないと収拾がつきそうになかった。

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