(六)ノ5
日頃の苦手意識が薄くなり、オルフェは今、ハルモニアと交わす会話に心地良さすら覚えていた。
ただ、彼女のほうはそこまででもなかったのか、「オルフェ先生」と、もう既に表情を引き締め直していた。
「私に外出の許可を頂けませんか? すぐに戻りますので」
「え?」
「まだ近くにいるはずです。追いかけてエレクトラさんに謝罪を。私はよく知りもしないのに、あのようなことを。診察の邪魔をして追い返すなど、とんでもないことでした」
「ああ、いえ、あの子も分かっていると思うので。それに診察をしなかったのは私の判断です」
「ですが」
「エレクトラも、あなたに良くない態度を取りました。お互い様です。それでも気が済まないのなら、謝罪は診療所での務めを果たしてからにして下さい」
ハルモニアが、ぐっと言葉を詰まらせ、そして沈黙の間が落ちた。無表情の中にも、不満の感情がこぼれ出ている。
生真面目な彼女とって、務めを疎かにするなど以ての外。かといって、謝罪をしないままでいることも、自身の道義にまた反するもので、彼女の心の葛藤は推して知るべしである。
すると、丁度そのタイミングで「おーい」と、遠慮のないだみ声と共に、診察室へのドアが乱暴に叩かれた。
「先生、まだかあ?」
辛抱のきかない中年男が、しびれを切らしたようだ。まだ呼んでもいないのに、無遠慮に急かしてくる。
ただ、今回はまあ、助け船である。
「ほら」と、オルフェは言った。
「診療所は朝が忙しいのです。あなたに今抜けられたら、私が困ります」
「長話が過ぎましたね」と、ハルモニアは諦めた。
「仕方ありません。謝罪はまた日を改めます」
「ヘファイト! 入ってきて良いよ」
オルフェはドアに向かって声を張った。
しかし言ってから気付いた。昨夜のアルゴルの件で、ヘファイトがまた色々と迫ってくるのは目に見えている。この件はパーン司祭にまだ報告をしていないのだ。きっとそのことで、ハルモニアからは咎められるのだろう。
そう思うと、せっかく近くなれた彼女との距離が、また遠ざかってしまいそうな、そんな気がして、心が重くなった。
※
「ウェヌス」と名前が刻まれたプレートが提げられている。その店のドアの前で立ち止まったエウリーケは、怖気づいていた。
ここまでの道中の緊張が解けていない。
ダイタロスの一角を占める繁華街の中ほど、メインからは外れた裏通り。
犇めいた建物に切り取られた早朝の空は青く、雲も薄い。なのに狭い露地は、落ちた影に上塗りされ、鈍い色味の景色がどこまで続いた。
独特の臭気が、鼻にまとわりついて不快だった。アルコールと、吐瀉物が入り混じったものだろうか。
ここは夜に賑わう場所。だから日が昇れば、群れていた浮かれ者たちは野ネズミが巣に帰るかのように姿を隠し、今は酔いつぶれて項垂れる男の姿に、その名残りが伺える程度に寂れている。
そんな場所に足を踏み入れるのは、これまでまったく縁のなかったエウリーケにとって、大いに勇気が必要な行為だった。
もちろん娘を連れてなど来れない。クロトは宿屋で義妹に見てもらっている。
足がすくみそうになりながら、それでも何とかこうして辿り着けたのは、カロンが同行してくれたから。偏にそれに尽きた。
森での頼りがいを口にしていたオルフェの言葉が、今は実感として理解できた。
この心強い護衛役がいなければ、怖さで一歩たりとも前に進めなかったかもしれない。
「ほらよ」
背後から、そのカロンの引き締まった腕が伸びてきて、店のドアが引き開けられた。
それでもなお躊躇っていると、そっと肩を押された。エウリーケは店内へと、一歩、二歩と入り込む。
「お、おじゃましまーす」
不安に声が震えた。
営業の時間ではないが、それでも施錠されていないのだから、誰かはいる。それは「彼女」なのだろうか。だとするならば、エウリーケにとって、十三年ぶりの対面だった。
店内は静寂で、そして薄暗く陰鬱だった。
差し込まれる朝の陽光がまるで足りていない。壁に設けられた窓が小さいのは、それはこの建物が、日中に用途を持たないものだからか。
テーブル席が四組、その奥にカウンター、反対側の壁際には布張りソファーがL字型に並ぶ。それらの座席数をざっと数えれば三十人程度で一杯になりそうだ。
エウリーケは少し意外に思った。始めて一年、それで葡萄酒卸売商がわざわざ追加をムーサイ村に発注するぐらいに、ワインが飲まれる繁盛店だと聞いた。なので、もっと大きな規模のものを勝手に想像していた。
「ああ、やっぱり来てくれたのね」
落ち着いた大人の女性の声だった。毎夜流し込んでいるはずのアルコールに喉を焼かれることもなく、まるで透き通るかのような心地良さで、エウリーケの耳を柔らかく撫でてきた。
「待ってたわ。さあ、どうぞ、そのまま中に入ってきて」
促されて、カロンが先に前に進み、エウリーケはその後に続いた。
ガタリと椅子の引く音が鳴った。カウンターの向こうに座っていたらしいその女性が立ち上がった。そして、そうしたことで丁度、小窓からの陽光がスポットライトとなって彼女の姿を照らした。
エウリーケはカロンの背中越しに、彼女を見る。
まさに「美の女神」そのものかのようだった。
胸まであるブロンドの髪は、朝日に輝く海のように緩やかに波を描き、白い肌に長い鼻梁、豊かな唇。年と共に魅力を積み重ねてきた大人の美しさ。なのに、大きな瞳だけが少女のような無垢さで潤んでいた。
細い首が露わにしたデコルテへと広がる。マーメイドドレスに包まれた身体に無駄な肉は無く、形の良い胸をくっきりと描く曲線が艶めかしい。
エウリーケは、ほう、と感嘆の息を漏らした。
相変わらずだと思った。いや、それどころか、十年以上もの時間ですらも、彼女にとっては、美しさにより磨きをかける為だけのものかのようだった。
エウリーケがカウンターを挟んで、目の前で立ち止まると、彼女は「あら」と、意外そうに紅をさした唇をすぼませた。
カロンの影に隠れてそれまで見えていなかったのか、思っていた人物とは違ったらしい。恐らく彼女は、テュケの再訪を期待していたのだろう。
「お久しぶりです」と、エウリーケは短く頭を下げた。
顔を上げ、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「ヴィーナさん」
「あなた、もしかして」ヴィーナと呼ばれた彼女は、元々が大きい目をより見開いて驚いていた。
「エウリーケちゃん?」
「はい」
ヴィーナは十三年前に出て行ったきりの、ムーサイの村人。そしてその際に別れたとはいえ、ヘファイトの元妻であり、エクニオスの母親であった。




