(六)ノ4
オルフェは話を続ける。
「薬で気管支の炎症が抑えられ、一時的に喘息の症状が和らいでいました。ただ、そうなれば子供とって薬は苦すぎるだけのものです。ついつい飲むふりをして捨てていたのだと。そして禁止していた家畜の牛に触れて、その際に体成分を吸ってしまい、それが発作の誘因になったのだと分かりました」
「それは――」
ハルモニアは首を横に振りながら「致し方ないことですね」と、先ほどまでいがみ合っていたエレクトラを庇った。
「幼い子が動物などに興味を魅かれるのはごく当たり前ですし、苦い薬を繰り返し飲み続けるのも、大人が思う以上に辛かったはずです。苦味にまだ耐性がないのですから。咎め立てすることでありません。ただ、その代償が――。息が出来なくなるとは、どれほど恐ろしかったことでしょう」
「ええ、本当に」
オルフェもハルモニアの意見に同意した。
この反省があって、アスクレラスもオルフェも薬効ばかりを求めていた調合を見直し、またハチミツを用いたりと、少しでも子供が薬を飲みやすくなるように工夫を心がけるようになったのだ。
「しかし、幼いエレクトラは、自身をとても責めました。言いつけを破ったこと、隠れて薬を捨てていたこと――。それからずっとです。彼女は薬を飲み続け、動物には近寄ろうとすらしません。今も変わらずにそうしています。もう大丈夫だと、本人も分かってはいるのですが」
それでもエレクトラが望み続けるなら、あえて苦いまま調合を変えていないその薬を、オルフェは決して切らさない。
アスクレラスが忽然と姿を消したのは、それからしばらく経ってからだった。ただ、オルフェはずっと傍で見習ってきたのだ。
だから彼女とて同じことをしたと確信している。エウリーケの為に、身長を止める嘘の薬を与え続けていたあの母ならば。
だから間違ってなどいない。
これがオルフェがアスクレラスから受け継いだ、この診療所の在り方だ。
「病気や怪我で薬が必要となるのは当然です。ですが体に問題がなくとも、心がそうでなければ、それは健康とは言えません。エレクトラは薬の苦さによって、発作を起こしたときの恐怖を打ち消そうと闘っている。もう二度とあんな思いはしたくないから。だから飲み続けているのです。この薬さえ飲んでいれば大丈夫なのだと、自分に言い聞かせる為に。たとえ仮初めであったとしても、ひと時の安心を得られる。ならば私がすべきなのは――」
「よく分かりました」ハルモニアは深く頷く。
「確かにおっしゃる通りですね。エレクトラさんは、まだこれからも病と闘っていかなくてはならない。その為の薬だったのですね」
私の考えが至りませんでした、と背筋を伸ばしたまま短く頭を下げた。
オルフェはほっと息をついた。どうやら納得してくれたようだ。
ただ、しかしすぐに「ですが」と、ハルモニアは顔を上げて声をまた固くした。
「とはいえ、彼女のオルフェ先生に対するあのような接し方については、話がまた別です。やはり受け入れ難いものがあります。もっと、慎むべきかと」
「ああ、まあ……」
オルフェは後ろ頭を掻きながら、曖昧に笑った。
貞潔を神に誓った潔癖な彼女からすれば、あの奔放さは自身の考えと相反するものであろう。
ただ、ハルモニアのオルフェへと向ける目は平たんで、責めているわけではなさそうだった。
「まったく、分からないわけでもないのです」と、ハルモニアは言った。
「エレクトラさんの気持ちも――。私はずっと修道院暮らしで、物心ついたころから女性ばかりの環境の中にありました。この村に赴任するまでは、異性とは縁遠いもので、性愛についてはこの身は何も知りません。ですが、そんな私でも、病気に苦しんできた幼かった子が、何年も寄り添い、癒そうと共に闘ってくれるあなたへの信頼と尊敬を、成長とともに恋愛感情に結びつけたのであろうと、それぐらいなら想像がつきます」
「ええ、――まあ、そういうことなのだろうと思います」
ハルモニアが、このように話るとは。オルフェは意外に思いながら頷いた。
「いかがなさるおつもりですか?」
「はい?」
「差し出がましいことを申します。オルフェ先生は既婚者です。まさか彼女の気持ちに応えるわけにもいかないかと」
「ああ」
何かと思えば、オルフェは吹き出しそうになるのを堪えて、苦笑で誤魔化した。
「今は、そうですね。うん、このままで良いと思っています」
「ですが、それは――、問題を先延ばしにしているだけのように感じます」
「そうでもありません」
だって、とオルフェは続けた。
「そのうちフラれるそうですよ。私は。エウリーケが言うには」
「え?」
「エレクトラはあのように明るく良い子ですからね。これからどんどんとモテるようになるでしょう。周りの同年代の男の子が放っておくわけがない。そしてきっと、その中の誰かと気が合い、いずれ恋をする。あの子のことです。自分に相応しい相手が本当は誰なのか、ちゃんと分かる時がくるはずです。あんな芝居じみた不自然な態度で接する必要のない、素でいられる人と。そうなれば私なんて、もう――」
「子供だからと侮っていませんか? 先ほどの彼女を見るに、とてもそうなるとは思えないのですが」
「どうなのでしょう」
オルフェは笑い、「ただ、ともかくその時がくれば」と言った。
「もう、あんな苦い薬なんて必要ない――。そう告げられて私はフラれるのかもしれません」
ああ、とハルモニアは納得の小さな息を漏らした。
「もしそうなれば、彼女の病気が本当の意味で根治したと、初めてそう言えるのですね」
「ええ、そうです。ただ、まあ、本音はちょっと寂しい気が……、まあ、しないでもない、のかな?」
オルフェが冗談じみて言うと、ハルモニアは微かな笑みで応えた。
ふと、診察室の空気のほの温かさを、頬に感じた。
なんだか、ハルモニアとの距離が少しだけ近付いた。そんな気がして心に余裕が生じたようだった。




