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(六)ノ3

「オルフェ先生――」

 ハルモニアの声が低い。エレクトラが向こうへと姿を消したドアを見つめながらゆっくりと歩き出すと、オルフェの真正面へと回り込む。そして、診察用の椅子に座るオルフェを、冷ややかな目で見下ろしてきた。

「あの薬は何です? エレクトラさんは病を患っているようには見受けられませんでしたが?」

 そうくるだろうと分かっていた。だから次の患者ヘファイトを診る前に、こうして時間を取ったのだ。

 本来ならその場で説明すべきだったのだろう。ただ、二人が急にいがみ合いだしたので、それでタイミングを逸したのだと、オルフェは自分に言い訳をした。

 正直に言えば、ハルモニアに対して若干の苦手意識がある。この冷たい視線に身を晒されると、気持ちが委縮してしまうのだ。

 ただ、それでも今はエレクトラのことを、このまま誤解された状態にしておきたくはなかった。


「うん、そうですね」オルフェは頷いた。

「体には何も問題もなさそうで、良いことです」

「ええ、それはその通りです。しかし、ではなぜ薬を? あれはオルフェ先生が森でわざわざ材料を採取して調合したものではないのですか? 運営費の不足については教会に身を置く者として私も心苦しく思っております。ですが、必要もない人にまで薬ををやたらに与えてしまうのは如何なものかと」

「誰彼構わずにそうしている訳ではないですよ。エレクトラにはあの薬が必要だから渡しているのです」

 ほう? と、彼女は疑わし気な目で、抑揚のない声と共に息を漏らした。

「それは、どういうことでしょうか?」

 上体を折り曲げ、顔をずいと近付けてきた。

 納得し難いことがあれば、そればかりが頭の中を占めて我慢ならない性格なのだと分かる。普段なら必要以上に開けたがるオルフェとの距離を、このように自ら狭めて迫ってくるぐらいなのだから。


 二人の間には厚めの本一冊分のすき間。真っ直ぐに向けられた切れ目の中の暗い色の瞳に、オルフェは捕らえられていた。

 これは、もはや尋問である。彼女の正しさは容赦がなく、相手の逃げ道をじわじわと奪っていく。

 ただ、そんな中でもオルフェは別のことを思った。


 大理石のように無機質に感じたハルモニアの顔は、このように間近で見れば、それは瑞々しい果物かなにかで比喩すべきものであった。

 白い肌は柔らかそうで、きめ細かくなめらか。長く豊かな睫毛で縁取られた目と、程よい高さで筋の通った鼻に、薄紅色の控えめな唇。

 すっきりとした輪郭の中で、それらのパーツがバランス良く配置されている。

 これは奇麗と形容される以外に何物でもなく、日頃は変化に乏しい表情の所為で意識させられないが、彼女の容姿は確かに魅力的なのだと実感した。


「近いです」

 オルフェが耐えかねて呟くと、ハルモニアもはっと気付いて、すぐに上体を戻した。顔を引き、三歩ほど後退りをする。

 ここで頬の一つでも染めてくれれば、まだ可愛気もあるのだが、生憎とそういったタイプではないらしい。内心はともかく、彼女の頬は白いままだし、表情も平坦で、相変わらず感情を読み取らせてくれない。

 ただ、オルフェが苦笑を漏らせば、彼女は真顔に眉根を寄せて皺を一つだけ刻んでみせた。

 その皺の深さで、オルフェはハルモニアの心の内を理解しなくてはならなかった。


「あ、いや、失礼」

 オルフェは謝罪し、診察用の椅子から腰を上げた。ほとんど無意識にハルモニアとの距離を取り直す為に窓際へと移動し、外の景色へと目を向けた。

 丘の上から見るムーサイは今日も長閑だ。穏やかな陽気に村は明るく、麦畑の稲穂が色褪せながらも輝いて、緩やかに波打っている。エウリーケとクロトとの三人で、一緒に日向で微睡めば、どれほど心が安らぐだろうか。

 ああ、癒されたい……


「きっと、母も同じことをしたと思います」

 オルフェは振り返り、「ここは」と言った。真正面からハルモニアを見る。

「アスクレラスの診療所です」

「ええ」とハルモニアは頷いた。

「そう呼称されていることは存じております。ですが、それでは説明になっていません。いったい――」

「気管支喘息」

「え?」

「もう、十年にもなるのですね。私がエレクトラを診るようになって。私も当初はまだ子供のようなものでしたが、それでも母から少しずつ患者を任されるようになっていて――。当時、たった三歳だったエレクトラは、喘息をひどく患っていたんです」

「喘息を……。そうでしたか、そんな幼い頃から」

 ハルモニアは暗い色の瞳を伏せて、痛ましそうに表情を微かに歪めた。彼女は自他に厳しくはあるが、心根は確実に善性である。

「ですが、もう大丈夫になっていますよ。症例を見ても、子供の喘息は成長と共に緩和され、十歳を過ぎる頃には自然と治るものが多い。彼女も今は喘息の症状はでていません」

「では、彼女がここに来るのは経過観察の為だったのですね」

 ハルモニアが表情を険しくした。「なのに、私は――」と、これは自身に対して怒っているのだ。


「あの薬は気管支の炎症を抑える為のもので、あの子がずっと飲み続けているものです。ただ、本来の意味ではもう薬は必要ではなくなっています」

「それでも」とハルモニアは、静かな口調で言った。

「エレクトラさんは薬を求めている?」

「はい」オルフェは頷いた。

「エレクトラが診療所に通うようになって三年が過ぎた頃でしたか、酷い発作で運び込まれてきたことがありました。気道が狭窄して呼吸困難を起こし、既に唇も青紫に変色していました。血中酸素濃度不足チアノーゼです。大変に危険な状態で、当時の私では手に負えず、母が対処して一命を取り留められたのですが、ただ、ずっと安定していたのに、どうしてあのような発作を起こしてしまったのか」

 オルフェは途中で一つ息をついた。ハルモニアは黙ってオルフェの目を見つめている。

 当初の攻撃性は影を潜め、今の彼女ならば、聖職者らしく寛容の心で受け止めてくれそうだ。

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