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(六)ノ1

 ムーサイはこのところ好天に恵まれていた。今朝も空は青く澄み渡り、陽光が分け隔てなく村へと降り注いでくる。

 丘の上のアスクレラス診療所にも、格子窓を透かして明るさが届けられ、診察室は心地良く暖められた空気で満たされようとしていた。

 穏やかな一日が始まる。


 そうなるはずだった……


 睨み合う二人の女性。その間に挟まれ、苦笑いを浮かべる青年オルフェ

 奔放と堅物。考え方が根本的に合わないこの二人が対峙すれば、それは竜虎相まみえるである。

 診察室は只今、大変な緊張感で重苦しさに支配されていた。

 何故このような状況に陥ったのか。それは、エレクトラ。彼女がこの日の最初の患者だったからである。


 ふわふわと柔らかく巻かれた赤褐色レッドブラウンの髪。そばかすが微かに残る薄桃色の丸い頬と、潤んだ碧い瞳。

 十三歳と成人になるにはまだ三年も待たねばならぬ少女は、顔立ちには年相応の拙さを残すものの、ただ造作は関係なしに、自分を魅力的に映えさせる術をもう既に心得ている。

 そしてオルフェへの好意をいっさい隠さない、そんな子であった。


「先生、おはようございます」

 意識的に高くした声と共に、エレクトラが診察室へのドアを開けた。

 ヒヤシンスのように華やかな笑顔。しかし、オルフェの脇に控えた修道女ハルモニアの姿を認めると、いきなりその花弁が閉じた。

「せっかく張り切って来たのに」と、舌打ち混じりに小さく呟く。それでオルフェは理解した。


 エレクトラが診療所へと通う間隔や頻度はまちまちなのに、どうしてこの日に、それも朝一番に来たのか。

 それは、今日はエウリーケという邪魔者ライバルがいないのを知ったからなのだろう。

 オルフェと二人っきりになれるつもりで意気込んだというわけだ。


 ただ、その目論見がいきなり崩れてしまったわけだが、それでも切り替えの早さは若さ故か。ともかくハルモニアの存在は無視してしまえと決めたらしい。

 修道女ハルモニアを視界から消し去り、上目遣いでオルフェだけを見つめながら中に入ると、診察用の丸椅子に、勢いでスカートが広がらぬように手で押さえてから、ストンと腰を落とす。


「センセ」と、語尾を上げながら、殊更に可愛らしく作った声でそう呼んだ。

「今朝は、私が一番です」

「うん、エレクトラ、おはよう。顔が見れて嬉しいよ。それで、体の調子はどう?」

 オルフェの問いかけに、エレクトラは小首を傾げるように肩をすくめて「相変わらず」と応えた。

「なんの問題もないよ」

「それは何よりだね」

「ああ、でも、先生」と、少女は体をよじり、しなを作った。

「私、先生のことを思うと胸がドキドキするの。どうしてかな? これってやっぱり何かの病気? だから、その……、診てもらえませんか?」

 エレクトラは頬を染めながら目を伏せて、恥じらう乙女を演じてみせる。ただ、その割には、手の動きにまったく迷いがない。さっさと自ら胸元のボタンを外しにかかった。

 エウリーケがいない所為か、今朝の彼女はとにかく展開が早い。

 しかしオルフェの脇には、より怖い監視役が控えている。彼女はこういった手合いには、決してエウリーケほどに寛容ではなかった。


「お待ちなさい」と、すかさずハルモニアが留めてくる。

「あなたは先に、体調に問題はないと述べていました。診察の必要性を感じませんが?」

 冷淡な声で諫められ、その不快さに少女の表情が一瞬、固まった。それでもオルフェの目を意識したのか、すぐにまた笑顔を作り直すと、頬がひきつりそうになるのを堪えながら、ハルモニアへと顔を向ける。

「あら、シスター」

 いたの? とまでは、さすがにその言葉は呑み込んだようだが、当てこすりの口調は露骨だ。

「その判断をするのはアナタではないと、私はそう思うのだけど?」

「ええ」と、ハルモニアは素直に認めた。

「確かに私がすることではありませんね」

「でしょ?」エレクトラは勝ち誇り、ニッコリと目を細めた。

「私、胸がドキドキするの。何かの病気かもしれないじゃない? だから先生に診てほしいとお願いしているだけよ。これって、おかしなことかしら?」

「ですが、その動悸は病気によるものとはとても思えません。診察の必要がどこにあるというのです?」

「だからあ、それを決めるのはシスターではないでしょ?」

「女性が無暗に肌を晒すのは、はしたないと言っているのです。年端もまだいかぬのに、子供がませた真似をするものではありません」

 いっぱしのレディを気取るエレクトラは、子供扱いされるのを何よりも嫌う。「何なのアナタ」と、遂に彼女は声を大きくした。

「横から口を挟んでこないで! 私は先生とお話しているの。だいたい何でシスターがここにいるのよ。お呼びでないわ。せっかく今日はエウリーケさんがいないって聞いたから、めっちゃ気合い入れてたのに」

 あ、やっぱりそうなんだ。オルフェが胸中で苦笑すると、傍らから「お呼びでない?」と口の中での微かな呟きが漏れ聞こえてきた。

 その声がしたほう、つまりオルフェは、横目を向けてハルモニアの顔を見た。そして彼女が浮かべていた表情に、背筋がぞくりとした。

 口の端を吊り上げたシニカルな笑み。

 どうやらその言葉を挑発と受け取ったらしい。ハルモニアはものの見事に感情を逆なでにされていた。


「オルフェ先生からのご要望にお応えしたまでです」

「は?」

「聞こえませんでしたか? 私はオルフェ先生に、どうしてもこのワタシが必要と懇願されたから、それでこうしてここにいると、そう言いました」

「どうして、先生がアナタに……」

 目が泳ぐエレクトラを見て、ハルモニアが、さあ? と微かに鼻で笑う。

「ただ、それは私が最も適任と、オルフェ先生がそう思われたからでないでしょうか。ところで、ここに私がいると、何かあなたに不都合でもあるのですか? よく分からないのですが」

 分かっているくせに、ハルモニアは冷淡な目で、小娘エレクトラを見下すようにして言う。


 負けん気の強いエレクトラは、悔しさに顔を赤らめて修道女ハルモニアを睨みつけた。

 対してハルモニアは、大人の余裕を持って受け止めているようで、ただ彼女のほうも退くつもりはないらしい。子供と言い放った相手と、まったく同じレベルで張り合っている。

 ハルモニアが冷静に見えて実は短気な性格だというのは、これまでの付き合いで知っている。本来、オルフェを快く思っていないはずなのだが、エレクトラへの敵愾心、ただそれだけで、彼女が執着するオルフェを自分の側へと引き入れようとしているのだ。


 オルフェは居たたまれなさに、ハハッ……と、無意味に笑いながら、三角巾で首から吊り下げた右腕をギブスの上からそっと擦った。

 診察室は陽気のおかげでほの暖かいはずなのに、何故だろう、冷汗が止まらない。

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