(五)ノ20
「お待たせです、どうぞ」
宿屋の女の子がテーブルへと近寄り、テュケに葡萄酒の入ったグラスを手渡してきた。
「ありがと」
テュケは四分の一銅貨二枚と交換でグラスを受け取ると、「仕方ないなあ」とカロンに顔を向ける。
「カロン、何か頼みなよ。私が出してあげる」
「ん? 良いのか?」
「兄貴がお世話になってるからね。取り敢えずここはオゴるよ」
「そいつは、有難い。えっと――」
「麦酒にしますか?」
接客慣れした女の子がすかさず先回りする。赤髪に三白眼、無精ひげの強面な三十男の飲み物ならば、確かにそれが相応しい。
だが違う。カロンは大きく首を横に振った。
「いや、エールは飲めん」
「え?」予想外の返答に女の子の表情が固まる。
「苦いのがダメダメな甘党おじさんなの」とテュケは説明して、ワインのグラスに口をつけた。
女の子はやはり意外そうにカロンを見る。そして「あのう」と伺うように言った。
「蜂蜜がどうのって熱く語るのが聞こえてきたのって、ひょっとして――」
「この人よ」とエウリーケが応えた。
「あー、でしたかあ」
女の子の愛想笑いが引きつるのを余所に、カロンは「そうだな、せっかくだしここは、うーん」と、なおも優柔不断な態度を見せた。森では即断即決で実に頼りになるとオルフェから聞くが、本当かしら? とエウリーケは疑わし気な目を向ける。
「あのう」と女の子が、また言った。
「ありますよ、蜂蜜のお酒」
「ん?」
「蜂蜜がお好きなんですよね? ウチもママが蜂蜜酒が好きなんです。お一つ如何ですか?」
「な、んだと?」カロンの顔色が変わった。
「蜂蜜の酒、だと?」
「はい」
「へえ」とテュケが、葡萄酒醸造の修行中の身だからか、興味を魅かれたように声をあげた。
「聞いたことない。ねえ、その蜂蜜酒? それって珍しいよね?」
「どうでしょう? ただママが言うにはすっごく古くからのお酒で、でも今はこの手のは葡萄酒や林檎酒のほうが手軽で好まれるようになったから」
「ああ、主流がそっち移って廃れたってこと?」
「はい、なのであまり作られなくなったみたいです」
「そっか、なるほどね」とテュケは言ってから、「カロン」と、隣の男に顔を向けた。
「どう? その蜂蜜酒で良いんじゃない? 私も感想が聞きたい」
「ああ」と、カロンにもう迷いなどない。力強く頷いた。
「そんな夢みたいなものがあるなんてな。知らなかったぜ。不覚だ。お嬢ちゃん、取り敢えずそいつをグラスで一つ頼む」
「四分の一銅貨で三枚になります」
女の子は営業用スマイルのその顔の横で、指を三本立てる。
ワインよりも高いのか。カロンは振り返りテュケを見る。本気過ぎて目が血走っていた。これで断れば発狂してしまいそうだ。
「もちろん、良いよ」とテュケも心得ていて頷いた。
「ありがとうございまーす」
女の子は、「では、少々お待ち下さい」と小さく頭を下げてその場を離れた。
「早くねー」
カロンは満遍の笑みで手を振って女の子を見送る。無一文になり落ち込んでいたはずなのだが、甘い物さえ与えておけば簡単に機嫌が直るので扱いが易くて助かる。
エウリーケは女の子がカウンターへと戻ったのを見届けてから、「テュケちゃん」と声を掛けた。
「カロンの分は私が出すよ」
オルフェが世話になっている意味であるならば、エウリーケは自分の方こそがそうしなければと思った。
カロンの左瞼に刻まれた傷。森に入ったクロトと、それを追ったオルフェを守ろうと獣と戦った際のものだと聞いた。傷は塞がっても、跡になって一生残るらしい。
本人は男前が上がったと冗談めかしているが、もし一センチ当たり所がズレていれば、失明していたかもとオルフェは頭を下げて謝罪していた。
いくら護衛役がパーン司祭から報酬を受け取っているカロンの仕事とはいえ、オルフェとクロトの為に体を張ってくれるそんな彼に、やはり特別な感謝の念を抱くのは当然だった。
だが、それはオルフェの妹である彼女もまた、同じ思いなのであろう。
ううん、とテュケは笑みを浮かべて首を横に振る。
「今回は私がカロンの雇い主だからね。義姉さんは気にしないで」
「でも」
「それにね、葡萄酒卸売商でちょっとお使いを頼まれて、その駄賃もあるから」
「お使い?」
「あ、うん、まあ……、ちょっとしたこと、だけど」
自分から言い出したことなのに、そのくせテュケはなにやら急に歯切れが悪くなった。
「テュケ」と、カロンは真面目な口調になって言った。
「なんだ? 隠しておくつもりだったのか?」
「いや、そんな、そんなわけでもない、けど……。だけど良いのかな? 無暗に話して……」
「どうしたの? 何かあった?」
エウリーケは、テュケとカロンの交互に目を向ける。
「スゲー、美人がいた」
「カロンっ!」
「内緒にしろって、言われたわけでもないだろ?」
「それは……、そうだけどさあ」
「あのな」カロンは顔を横に向け、真っ直ぐにテュケを見る。
「これは、お前が独りで抱えることなんかで絶対にない。話しておけよ」
「でもお」
テュケはなおも迷った態度を見せた。
どうやら何処かに使い走りして、そこで誰かと会ったようだが。口ぶりからして、それはエウリーケも知っている人物なのかもしれない。
ただ、ムーサイの村の中だけで交友関係がほぼ完結してしまっているエウリーケには、ダイタロスでの知り合いなどマイヤぐらいで、他に心当たりがなかった。




