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(二)ノ1

 額に感じるしっとりと柔らかな感触。それは朝の訪れを告げるいつもの目覚めの合図。

「オルフェ、朝よ」

 遠慮がちに囁く声が耳を撫で、オルフェは意識が覚醒しきれないままに薄く目を開けた。

 寝惚け眼の霞む視界はやがて、栗色の髪をした愛しい女性、妻のエウリーケの姿へと焦点があった。彼女はオルフェが眠るベッドの枕元に腰を掛け、半身を向けていた。

 そしてオルフェが目を覚ましたのを認めると、覗き込むように顔を近付け、優しい笑みを浮かべる。

 この至近距離でも、エウリーケのヘーゼル色の瞳はお目見えしない。笑うとほとんど閉じた糸目の状態になるのだ。

 彼女の瞼は綺麗な二重に切れているのだが、近視故にクセで目を細めるのが常だった。


「おはよう、オルフェ。そろそろ起きれて?」

 彼女の柔らかな声とその微笑みに、ああ、と生返事を返しながらオルフェは思う。今朝もまた、彼女に恋をしたと。

「エウリー、おはよう。今朝も奇麗だよ」

 まだ昨日の疲れが残っているらしく、シーツの心地良さから離れ難いオルフェは、枕に深く頭を沈め直しながら、そう告げる。

 そして腕を伸ばし、彼女のウエーブがかったミディアムボブの髪にそっと触れた。

 エウリーケはオルフェのその手を取り、自らの頬に当てて受け止め直す。そして口元に小さな笑みを浮かべたまま、静かに首を横に振った。オルフェの言葉に対する返事である。


 オルフェは本心から彼女を美しいと思っているが、エウリーケの自己評価は低かった。それは謙虚な性格からだけでなく、彼女のコンプレックスからくるものであった。

 エウリーケの身長は百七十三センチあり、村の女性で最も背が高い。オルフェは辛うじて追い抜くことに成功したが、出会ったばかりの子供の頃は、彼女のほうが十五センチも高かった。

 早熟すぎたが故に極端であったその特徴は、同世代の子供達にとって格好の揶揄いの対象となり、付けられたあだ名は、巨人を意味する「ギガース」である。

 もちろんオルフェがその囃したてる輪に加わることは無かったが、何度もその言葉は耳にした。そしてそこには背を丸め、頬を赤くして俯くエウリーケの姿があった。

 思春期の女の子を傷つける、充分に酷いものだとオルフェも分かってはいた。しかし腹立たしさを覚えても、オルフェもまた未熟で非力な少年に過ぎず、当時はどうすることも出来なかった。それは今も苦い思いとなって残っている。


 ただやがて年月が経つと、周囲も彼女の成長に追いつき始め、それでようやく気付くようになった。エウリーケの柔らかな美しさに。

 「ギガース」のあだ名は廃れていき、エウリーケも次第に背筋を真っ直ぐに伸ばすようになった。しかしそれでも、植え付けられた根は深い。

 容姿で誰かに褒められても「でも私、ほら、大きいから」と、自信の無さは相変わらずのままのようだった。


 だからエウリーケは、オルフェの先ほどの言葉を、素直に受け入れようとしてくれない。

 オルフェはそのことに若干のもどかしさを募らせつつ、エウリーケの顔をじっと見つめる。

 彼女の目の下に、薄っすらとだがクマが出来ているのに気付いた。そしてその理由は、すぐに察しがつく。

 オルフェは隣のベッドのシーツが、昨日に整えられたまま乱れがないのをチラリと横目で確認してから、彼女の頬に触れる手の指先で、そっとその部分をなぞった。


「昨夜は結局、あれから寝なかったのかい?」

「あの子、夜明け前に一度、目を覚ましたわ」

 オルフェが労わる思いで問いかけると、エウリーケは直接は答えずに、クスリと微笑んでからそう告げた。

 その言葉にオルフェは、ハッとして上体を跳ね上げた。

 急いでベッドから抜けようとすると、エウリーケは「慌てないで」と、オルフェの肩に手を添えて諫める。

「今はまた眠ってるの。起こさないであげて」

「そうか、――そう、だな」


 オルフェは上体をベッドのヘッドボードを背もたれにして預け、心を落ち着けようと、静かに息をついた。

 昨日、カロンと共に自宅へと連れ帰った女の子をすぐに、診察室のベッドへと寝かせた。

 解熱剤を皮下投与し、生理的食塩水を点滴輸液した。あとは女の子の体力が戻るのを待つだけである。

 経過観察と、途中で点滴の交換が必要となる為、一晩中起きて看病するつもりでいたが、森からの帰還で疲弊していたオルフェの体をエウリーケが気遣った。

 彼女が代りを申し出てくれて、オルフェはそれに甘えることにした。

 点滴の交換を終えたら寝てくれて良いと言ったのだが、生真面目なエウリーケは結局朝まで見守り続けたようだった。


「女の子の様子はどう? 変わったところはなかった?」

「大丈夫よ。もうずっと熱も下がっているし、寝息も静かだわ。薬が良く効いているみたいね」

 オルフェは、ほう、と小さく安堵の息をついた。確かにそうなのだろうという思いはあった。

 もし容体に変化があれば、エウリーケは夜中に叩き起こしてでも知らせてくるはずで、今の彼女の様子にも慌てたところはないのだから。

 オルフェは「良かった」と呟き、それで、と言葉を続ける。

「目を覚ました時、あの子と何か話は出来た?」

 エウリーケは小さく首を横に振る。

「ボーとして目だけで辺りを見渡してたけど、なんだか状況が呑み込めていないみたいだった。まあ、それは当たり前だよね」

「うん、それは確かにそうだろうね」

「だから寝なさいって、私、そう言ったの。今は何も考えずにゆっくりと」

 それで良かったよね? と確認する彼女に、オルフェは「もちろん」と頷いて返した。女の子の事情は確かに知りたいが、ただそれも、何よりまずは回復してからの話である。


「ねえ、オルフェ」

 不意にエウリーケの口調が改まった。

「あの子、元気になったら――、そうしたら、それからどうしようか?」

「うん」

 オルフェは頷き、エウリーケの細められた目を見つめ返す。何と言ってほしいのか、彼女が期待する言葉は察していた。

 結婚して五年。仲睦まじさは相も変わらずであるが、唯一の夫婦の悩み。子が授かるよう望み、それはいまだに叶っていなかった。

 重荷にならぬよう、互いにあまり口にはしないが、思いが五年も募れば、それはもはや渇望と言ってよかった。


 もし女の子に身寄りがなければ、ダイタロスには孤児院がある。そこに預けるのかも含め、まずは教会のパーン司祭と村人たちも交えて相談すべきだろう。

 だが既に、オルフェにはある思いがあった。

 森であの子を見つけ、オロベルスの群れに襲われた時、そしてこの家に連れ帰るまでの間、ずっと女の子をこの腕の中に抱いた。

 頼りない細腕ではあるが、オルフェなりに精一杯に守ったつもりだった。特別な感情が心に宿っている。


 エウリーケもきっとそうなのだろう。

 点滴の交換を終えたら休んでと言ったのに、彼女は一晩中見守り続けた。

 心根の優しい女性である。森での経緯を知り、眠る女の子の頭を撫でながら、これからの身の上をさぞかし案じたはずだ。

 そんなエウリーケが、その時にどんな表情を浮かべていたのか、オルフェには想像するのが容易だった。


 思いは同じ。それでもオルフェは、その言葉を口にするのを躊躇った。

 女の子の為にどうするのか最善か。

 大事なのはそこであり、オルフェとそしてエウリーケが抱いたこの感情は、子を望んできた夫婦のエゴでしかない。

 もし女の子に帰るべき場所があるのならば、オルフェ達にはその背中を見送るだけしか許されない。そしてそれで、女の子との繋がりは途切れてしまう。


 きっと、落胆するのだろう――

 一度でも夫婦で期待を共有すると、女の子がいなくなった元の生活に、虚無感を抱いてしまうかもしれない。オルフェはそれが怖かった。

 なので今は本音を隠すべきだと考えた。


「まあ、今あれこれ思いめぐらせても仕方ないよ。なにも事情を知らないのだし」

 彼女が聞きたかった言葉で無いのは分かっている。エウリーケは僅かに顔を伏せた。

「あの子が目を覚ましたら話を聞こう。多少は事情も分かるだろうし。考えるのはそれからで良いと思うよ」

「――ええ、そうね」

 エウリーケは頷いたが、そこには一瞬の間があった。感情を飲み込むのに要したものだった。そして飲みきれなかった分、言葉は後に続かなかった。

 代わりに彼女は、オルフェの口に軽くキスをした。そして、立ち上がる。

「オルフェ、顔を洗ってきて。朝ごはんにしましょう。早く済ませないとみんなが来ちゃうわよ」

 いつもと違わぬ朗らかな笑みになったエウリーケは、丈が脹脛ほどまであるスカートの裾を翻して枕元から離れた。

「今朝は私が作るよ。エウリーは少しゆっくりしてて」

 徹夜明けの彼女をオルフェは気遣った。エウリーケはドアのノブに手をかけたところで振り返る。

「もう準備してあるの。あとは温めたミルクをコップに注ぐだけ」

 彼女はドアを開きながらクスリと笑い、細めた目では分かり辛いウインクを返して、部屋を後にした。

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