(五)ノ19
夜になっても、正門広場は噴水やその周囲に明かりが灯されて、闇のそれとは程遠い。
往来する人の姿は随分と減ったが、まばらになったわけでなく、日が沈んでも昼間からの空気が落ち着かないままで、賑やかさの名残りが未だ色濃くあった。
エウリーケはテーブルに頬杖をついて、窓越しにそんな外の様子を眺めていた。
宿屋の一階に割り当てられた食堂は、そう広いわけでもない。三十人に満たずともそれで座席はほぼ埋まっており、エウリーケは娘のクロトと、義妹のテュケに護衛役で同行したカロンと四人での夕食を済ませたところだった。
それから酒を飲みつつ、ダイタロスで過ごす夜の余韻に浸る。今朝早くにムーサイを発って以来の、長く濃密な一日が終わろうとしていた。
長椅子の隣に座るクロトが、エウリーケへと体を預けてきた。見るとクロトは、瞼を重そうにしていた。琥珀色の瞳が半分ほど塞がっている。無理もない。疲れもあるだろうし、日頃であればベッドに入っている時間だ。
「もうお眠なのかな? クロトちゃん」
向かいの席のテュケが、テーブル越しにクロトの顔を覗き込む。
「そうみたいね」
エウリーケが代わりに応えると、テュケは「そっか」と呟いて、グラスに残っていた葡萄酒を空にして、ふう、と息をついた。
「じゃあ、クロトちゃん、そろそろお部屋に戻る?」
テュケが訊くと、しかしクロトは頬を膨らませて不満そうにした。この子もまた、村にいては体験出来なかったこの一日が終わってしまうのを、まだ惜しんでいたいのかもしれない。
「もうちょっと頑張るみたいよ」
やがては睡魔に負けるにしても、今はまだ愚図るほどではなく、エウリーケは娘の気持ちを汲み取って、そう言った。
「頑張れる?」と、テュケはクロトの意思を確認して笑う。
「なら、あと一杯だけ付き合ってもうらおうかな」
テュケは軽く手を上げて、カウンターに控えていた女の子を呼び寄せると、ワインのおかわりを頼んだ。
「エウリー義姉さんは?」
「うーん、大丈夫」
エウリーケは宿屋の女の子に向けて首を横に振った。
食事は宿泊代に含まれているが、お酒は別料金で、一番安いからと頼んだ二杯目の麦酒が木製ジョッキの底にまだ僅かにあった。
ただ、あまり強くないので、お酒はもうこれだけで充分だった。
「では、ワインをグラスで一つですね」
はきはきとした口調。やや硬そうな髪を両サイドに結わえて耳の下まで垂らし、しっかりした眉毛と丸い目に小さな鼻が可愛らしい。
女の子はこの宿屋の娘で、両親の仕事を手伝っているのだという。聞けばまだ十一歳とのことだが、大人たちを相手に物怖じする様子もなく、子供そのもの見た目とは裏腹に、最早ベテランの風格すら漂わせている。
いったい幾つの頃から働いているのだろうか、エウリーケは静かに息をつき、カウンターへと引き返す女の子の、その小さな背中を何となしに眺めて見送った。
するとテュケが、「義姉さん、どうしたの?」と訪ねてきた。
「ん? 何が?」
「いや、なんか元気ないように見えたから。疲れた?」
「そうかな? そんなつもりはないのだけど」
「でも口数、少なくない?」
「せっかくの街だからね。ちょっと余所行きに、大人の女性を気取ってみてるところなの」
「なによ、それ」
エウリーケがおどけて誤魔化すと、テュケは噴出すようにして大げさに笑った。だがこれは、場を和らげようと彼女なりに気を使ってくれてのことだ。
そうか、とエウリーケは思った。
普段通りに振る舞っていたつもりだったが、どうやら見抜かれるほど態度に出ていたようだ。
確かにエウリーケには、心に掛かるものがあった。
それはオタネニンジンの存在だった。
メリクリウ商館で、マイヤから受け取った大変に貴重な薬草の根なのだが、ただエウリーケが気にしたのはオタネニンジンそのものでなく、オルフェが何故これを欲したのか、その理由だ。
金貨で十枚という価値に動揺して、その場では考える余裕がなかった。だが宿屋への帰りしなに分かった。
お婆だ――
そこに思い至ると、エウリーケの中で色々と結びついてしまった。
グライア婆は咳き込むことが多くなった。エウリーケが気にし始めたのは最近だが、実はもっと以前からそうだったのかもしれない。
咳は乾いたもので、一度出始めるとしばらく苦しそうに続く。そしてその度に、オルフェの顔が曇った。
オルフェは元々が読書家だが、昨年あたりからだろうか、パーン司祭から借りる本が医学薬学書ばかりになった。それ自体は仕事柄、珍しいことでもないが、ただ、明け方まで読みふけることもしばしばで、エウリーケが心配になって諫めても、「もうちょっと」と笑って本を閉じようとしなかった。
きっとグライア婆の咳の原因と、その解決方法を求めていたのだろう。そしてオルフェはオタネニンジンの存在を知り、必死に調べた。
お婆は、きっと良くない。
オルフェが遠い異国の仙薬にすがるぐらいに。もう、それぐらいしか手立てがないほどに――
グライア婆はいつも快活で、でも思い返せば、ここ最近で随分と痩せてしまっていた。
七十をとうに超えた年齢を考えれば、あと二十年という数字が現実的でないのは、エウリーケとて頭では分かっているつもりであった。
でも十年ぐらいなら、どうだろうか?
別れはいつかやってくるのだけど、それは避けようもない未来なのだけれども、それでも今はまだ、目を逸らしていられるくらいの猶予はあるのだと、そう思っていたい。
でも、そうでなかったら? その時がもう迫っているのだとしたら――
「私より――」
エウリーケは、油断すれば心を覆いつくさんとする不安を無理に押しやり、テュケの隣のカロンに目を向けた。
長身の三十男は、テーブルに両肘をついて頭を抱え、分かりやすく落ち込んでいた。
「カロンの方がよほど無口ね。さっきからあからさまに元気ないけど、どうかしたの?」
「ああ、この人はね」とテュケが、冷めた目を横に向ける。
「自業自得なんだ。だから、このままほっといて良いんじゃない?」
「どうしたのよ? いったい」
「手持ちのお金をね、全部つぎ込んだんだってさ。甘味物に」
「全部?」
「そう、全部。私が今回の護衛料として支払った分も含めてね、ぜーんぶ」
「ええ……」
やることが何とも極端な、エウリーケが若干引いた目で見ると、その視線を感じ取ったのか「だ、だってよ」とカロンが、ガバッと青ざめた顔を上げた。
「スゲーんだぜ。蜂蜜をな、ふわふわのパンにな、そこにな、好きなだけ蜂蜜をかけて良いって言うんだぜ? スゴいだろ? スゴいよな、 なあ、なあ?」
「あ、うん、まあ、それはスゴい、ね」エウリーケは勢いに押され、仕方なしに頷いた。
「だろ? そうだろ? ここは天国かー、って叫びそうになった。マジで。それにな、蜂蜜だけじゃないんだ。いや、もちろん蜂蜜が一番だが、砂糖を使った菓子もなかなかヤバくてよ。タルト生地に甘く煮詰めた果物、その上から甘いクリームが模様を描いてな。見た目もスッゴく可愛らしいんだよ。フォークを刺すのをちょっと躊躇ったくらいだ」
「女子か、おのれは」
「本当だよ」
エウリーケはテュケに同調してからクロトに顔を向け、「ね、クロトもそう思うでしょ?」と同意を求めた。クロトは少し眠そうで、話を理解していたのかは不明だが、とにかく深く頷いて見せた。
「ほらあ、クロトもそう言ってる」
「話に聞いただけで高いお菓子だって分かるもん。そんなのに見境なく手を出せばそれは破産もするって」
テュケが呆れて言うと、カロンはばつの悪い顔になって、長椅子の脇に立て掛けてあった片手剣の柄に触れた。
「いや、とにかく食べたいのが、まだまだいっぱいあってな。オレを誘惑してくるんだ。もう、片手剣をよ、よほど売っちまおうかと」
「ちょっとお、やめてよ。ヘファイトの借り物でしょ? それ」テュケが咎める。
「分かってるよ。だからその衝動を抑えるのに、どれだけ歯をくしばったことか。本当に必死だった……」
カロンの声に戯れの色はなく、本気で売る寸前だったのだと分かった。
そんなカロンの姿に、エウリーケはテュケと顔を見合わせ、そして苦笑した。
お酒やギャンブルで身を滅ぼす話なら聞くが、まさか甘味物で……
カロンなら冗談でなく、このダイタロスに留まり続ければ、本当にそうなりかねないと、エウリーケは真剣にそう思った。
ここまでくると好きを通り越して、何かに憑りつかれているのかを疑うべきなのかもしれない。




