(五)ノ17
エクニオス少年が麦酒の入った木製ジョッキを両手に戻ってきた。
「遅えぞ、坊主」
すかさずヘファイトが手を伸ばし、ジョッキの一つを息子からぶん取って、そしてそのまま煽る。
「うん、ゴメン」
エクニオスも席に着くと父親に倣い、もう一つの木製ジョッキに口をつけて、くいっと傾けてエールを流し込んだ。
この少年も、もう十四歳。この村では十三歳から飲酒が許されているので問題ないのだが、見た目が子供そのものなだけに、何度見ても慣れない。
「アルゴルの様子をね、覗いてきてたから」
エクニオスは泡のついた口を親指の腹で拭い、ヘファイトに顔を向けて言い訳をした。
「アルゴル? ああ、そうだ、先生、丁度良かった。ちょっと話しておきたいことがあるんだが、良いか?」
「ん? アルゴル、どうかしたの?」
オルフェはアルゴルの姿を求めて、背筋を伸ばして目をやる。入店の際に視界の端で捉えていたので、どこにいるのかは分かる。カウンターの隅にその若者の姿があった。
ただ、丸めた背中が寂しそうにも映るのは、今夜は珍しく独りだからだろうか。
日頃は弟分のオレスタとヒュラーテスと一緒にいることが多いのだが、その二人は出入口近くのテーブルで静かに飲んでいた。
二人は共にアルゴルより二つ下の十七歳の若者で、オレスタは中肉中背、柔らかな髪を分けて額を晒し、目元が涼し気な整った顔立ちをしている。
ヒュラーテスのほうは無骨者といった感じでがっちりと背が高く、顔の彫も深い為か、実年齢よりも十歳は年かさに見える。
そして二人は、何やら不機嫌そのものといった顔をしていた。
「なんだか――」オルフェは三人のそれぞれの態度に違和感を覚えた。
「様子が変だね。別々だし。それに三人とも随分と大人しい」
「ああ、そうなんだよ。あいつら、毎晩のように連んで、居酒屋でバカ騒ぎしてたのによ。最近はあんなだぜ。なあ?」
ヘファイトに同意を求められ、エクニオスは、うん、と頷く。
「さっきね、アルゴルを誘ったんだ。一緒に飲もうよって。でも断られた。夕食だけですぐ帰るつもりみたい。エールも全く飲んでない。アルゴルね、あれ以来、孤立しているんだ」
「孤立? あれ以来って?」
「ほら、アルゴル、物見番の時に居眠りして、クロトちゃんが森に入るのを」
「ああ、でも、あれはもう、私もエウ――」
オルフェがアルゴルを庇おうとすると、ヘファイトが「分かっているよ」と遮った。
「先生も、エウリーケも、とっくにアイツを許しているのはな。まあ後でオレは、エウパボとイーオとで、ゲンコツ一発づつ見舞ったがな。ただ、それであの件は終いだ。そうするつもりだった」
三発も鉄拳制裁を受けたのか。腰の悪いエウパボはともかく、ヘファイトもイーオも重量級なだけに、相当な衝撃だったに違いない。
オルフェは苦笑して、さぞかし痛かったろうとアルゴルに同情した。すると、背後から甲高い声が掛かった。
「先生、お待たせ!」
給仕のカーリスが皿を両手に戻ってきて、テーブルの上に少量のベーコンが入ったひよこ豆のスープと、スライスしたライ麦パンを二枚を乗せた皿を並べた。小麦を混ぜたイーオの絶品のパンは採算が合わないからか、店では供されない。
「まずは、これ食べててね。後で他のも持ってくるから」
「ありがとう、カーリス。ああ、これは美味しそうだね」
オルフェがお礼を言うと、ふふ、とカーリスは微笑み、背後からオルフェの両肩に手を添えてきた。そして体を預けるようにしながらオルフェの顔を覗き込んでくる。
「先生、片手じゃ、食べにくいでしょ? アタシがアーンしてあげようか?」
首筋に柔らかな感触。豊満な胸が――
「いや、カーリス、大丈夫だから」
これは絶対にワザとだ。オルフェがカーリスの感触から逃れようと身をよじっていると、突然、目の前のエクニオスが勢いよく立ち上がった。
「どうした? 坊主」
ヘファイトが、息子を見上げて尋ねる。エクニオスは何か強い意志を宿した表情になっていた。
「ちょっと、ボク、腕折ってくる」
「え?」と、オルフェ。
「ん?」と、カーリス。
「はあ!?」と、ヘファイトが、間の抜けた声を上げた。
大人三人は唖然として、思わぬ宣言をした少年を見つめる。
束の間の無言。
「あっ」と、我に返ったらしく、エクニオスの顔が瞬く間に真っ赤になった。ストンと椅子に腰を落とす。
「じょ、冗談だよ。イヤだなあ、真面目にとらないでよ」
誤魔化すように笑う少年と、それを見る大人たち三人の、ああ……、とどう返すべきか分からぬままの力ない声が重なった。
店の看板娘として年齢不詳を貫くカーリスではあるが、そもそも何故不詳にするかを考えれば、それはそれなりに年を積み重ねているからで、十四歳の少年からすれば、どんなに少なく見積もっても親子の年齢差だ。
それはエクニオスも分かっているはずなのだが――、そう言えばこの少年、優しくてとっても良い子なのだが、性癖には多少の疑惑があったのをオルフェは思いだした。
「あ、ああ、そうだ」
オルフェは気を取り直し、話を本題に戻そうと、椅子を引いて距離を確保しながらカーリスに顔を向けた。
「カーリス、聞いて良い? アルゴル、最近はずっとあんな感じなの? 孤立気味だって、エクニオスが」
「アルゴル? うん、そうね。独りでゴハンだけ食べて、すぐに家に帰ってるわ。ここのところは毎晩そうよ。よほど居眠りの件が堪えたみたいね」
カーリスは逃げたオルフェを深追いするのは諦めて、背筋を伸ばすと豊満な胸を支えるように腕を組みながら応えた。
「でも、クロトは無事だったのだし……」
「結果的には、でしょ? あの子がやらかしたことには変わりないわ。それに先生、大怪我してさ。カロンに少しだけ聞いたけど、本当に危ないところだったって」
「この怪我は私の迂闊さが招いたものだよ」
「先生をそんな状況にさせた、その原因があの子にあるってことよ。物見番の役目を疎かにさえしてなければ、先生がクロトちゃんを探しに森に入る必要がなかったのだから」
カーリスは、首から三角巾で吊り下げたオルフェの右腕に目をやり、「まあ、あの子も」と小さなため息を混じえて言った。
「反省はしているみたいだし。アタシだって、あれで可愛い甥っ子だからね。なんとかしてあげたいのだけどねえ」
「簡単にはいかねえだろうな」
ヘファイトがエールを飲み干し、息をついてから言った。
「どうして?」オルフェはへファイトに目を向ける。
「アルゴルは反省しているし、ヘファイトたちからゲンコツももらった。もうそれで充分だと思うけど」
「そうは思ってねえ連中も多いってことだ」
「ん?」
「クロトだけならな、まあ無事に戻ったし、まだいい。それだけならすぐに済ませられる話だった。でも先生が怪我しちまった。それに聞いたぜ。先生だけでなく、カロンもニクスも、一歩間違えればクロトも含めて全員が死んでたかもってな」
「それをね、みんなが知ったのよ。だから、あの子に対して、割り切れないものがね――。そういう人も少なくないの」
カーリスがヘファイトの話を引き継ぎ、そしてエクニオスが「うん」と、頷いて顔を横に向けた。
「オレスタとヒュラーテスとも、それでこじれちゃったんだ。アルゴル」
エクニオスは、店の奥の方へと視線を送る。
その先には、不機嫌な顔で麦酒を飲むオレスタとヒュラーテスの姿があった。
二人は賑やかで陽気な空間の居酒屋の中にあっては異質なほどに、この場を楽しんでいるようには見えなかった。




