(五)ノ16
ムーサイの村で日常的に人が集う場所は、教会の礼拝堂であり、診療所である。
それともう一つ。
夜になると、光に導かれる羽虫のように吸い寄せられる建物があった。それは居酒屋で、村にとって唯一ともいえる娯楽の場だった。
村人の一日は、日の出と共に祈りを捧げることから始まる。礼拝堂にまで赴いて祈ったり、診療所へと立ち寄りもするが、そうしてから後は、とにかく皆、日中は懸命に働く。
そして日が傾けば、晩課(十八時)の鐘が鳴る頃にはもう、居酒屋で麦酒を飲み始める。そうやって明日への英気を養い、幸福な心で一日を終えるのだ。
多くの村人は、その繰り返しを『日常』としていた。
ただオルフェの場合は、エウリーケとそしてクロトの三人で静かに過ごす夜が常なので、この居酒屋に足を踏み入れる機会があまりなかった。
しかし今夜は夕食のあてにしていたパーン司祭が、ハルモニアの機嫌を損ねしまい、そんな彼女と同じテーブルに着く勇気をオルフェは持ち合わせてなどいない。
食事ぐらいなら片腕が不自由でも問題ないが、ただやはり、妻も娘もいない独りで夜を過ごすのはもの侘しく、それで思い立って居酒屋へと足を運んだのだった。
診療所の丘を下ると、広場の中に一軒だけ、木組みで大きな建物が鎮座しており、そこが居酒屋がある。エウパボとイーオの店だ。
村で唯一、教会より麦酒の醸造の権利を得ているのがエウパボで、なので飲みたいならここに来るしかない。そしてイーオの料理ももちろん美味しく、居酒屋はいつも大変な盛況ぶりだった。
オルフェが屋内入ると、用意されていた座席はやはりほぼ埋まっており、既に五十人ほどだろうか、老若男女が大小いくつかのグループに分かれて、麦酒を盛んに煽っている。
飲み競う男ども。椅子の上に片足を乗せながら、大げさな身振り手振りで熱く語る者もいれば、もう既に酔いに負けて、テーブルにうつ伏せる者もいる。
リュートの弦を巧みに弾き、その音色に合わせて歌う声と、手を取り合い慣れたステップで踊る姿。そんな周囲を気にもせず、二人っきりの世界に入り込む若い男女と、とにかく様々だ。
そしてカウンターの向こうでは、エウパボとイーオの夫婦二人が、ただの一秒たりともじっとしていなかった。エウパボは木製のジョッキに次々と麦酒を汲み、イーオは片手でレーテ川で獲れた魚を焼きながら、もう片方の手はスープの入った大鍋をかき混ぜてと、とにかく大忙しだ。
オルフェが店内の中ほどまで進み、存在をアピールしようと軽く手を上げると、二人ともすぐに破顔して「ああ、いらっしゃい」と晴れやかに応えてくれた。
しかし、それだけだ。
作業の手は止められない。どうやら構ってくれる余裕はなさそうだ。
そこでカーリスの出番である。
「あら、先生!」
甲高く華やかな声は、騒音ともいえるこの中にあっても、とても良く通る。
肉付きは良いがふくよかとはまた違う、豊満な胸にくびれた腰、大きなお尻のグラマラスな体形。踊り子のようにスカートの裾を翻しながらテーブルと人のすき間を器用に縫って、給仕のカーリスがオルフェの傍へと近付いてきた。
カーリスはイーオの妹で、ウエイトレスとしてこの店で働いている。結婚はしておらず、年齢は不詳。彼女曰く、姉とはかなり年が離れているとのことだが、イーオはそんなでもないと言う。
どちらが真実か、それはオルフェより上の世代の者なら知っているのだろうが、口にするのは野暮というものだ。
そんなカーリスがオルフェのすぐ目の前に立った。元来が人との物理的距離が近い性質なので、体が触れてしまいそうになり、オルフェは思わず一歩だけ退いた。
目元などは姉妹で似通う部分もあるが、全てが丸い印象の姉に対して、妹は男性的ではっきりとした顔立ちをしていた。
「いらっしゃい! 珍しいね、先生が来てくれるなんて」
「やあ、カーリス。今夜も忙しくしているね」
労いの意を込めてオルフェが微笑むと、カーリスは目を細め、うっとりと芝居じみた表情を浮かべた。
「ああ、良いわあ。なんか掃き溜めの中に花が咲いたみたい」
「ん?」
どういうことなのかオルフェが聞き返すと、カーリスはコルセットで締め上げた腰に手をやりながら軽く周囲に視線を送った。
「見てよ、先生。毎晩むさ苦しいヤツらばっか集まって来てさ、やってられないよ、ホント」
「あん? なんだあ、それは」近くの席にいた鍛冶職人のヘファイトが、聞き咎めてダミ声を上げた。
「オレたちが何だって?」
ほらね、とカーリスはオルフェに目配せをしてから、「何でもないよ」と平然とした態度でヘファイトには適当に応じる。
「先生に会えて癒されるって言ったんだ」
「はんっ!」
ヘファイトは赤ら顔の鼻に皺を寄せながらエールを一気に飲み干し、ふう、と息をつく。髭についた泡を腕で乱暴に拭うと、空になった木製ジョッキをカーリスに向けて突き出した。
「おかわりっ!」
「自分で取ってきなよ」
カーリスは腰に手をやったまま、カウンターのほうへと顎をしゃくる。
オルフェもつられて視線を辿ると、エウパボがカウンターへとエールのジョッキを次々と並べていき、そして並べた傍から村人たちが空のジョッキと交換で手に取って、各々の席へと戻っていくのが見れた。
「ったくよお」
ぞんざいな扱いだが、ここはそういう所だと理解している。ヘファイトも不満を漏らしながらも、素直に腰を上げようとした。
「あ、取ってくるよ。ボクのも無くなったし」
同じテーブルに着く、息子のエクニオスが父親を制して、素早く立上がった。
「先生は?」
「いや、私のはいいよ。二人の分だけ取ってきて」
オルフェが首を横に振ると、エクニオスは「うん、分かった」と頷いてカウンターへと向かっていった。
「ここ空いてるぜ。先生、座りなよ」
「ああ、ありがとう、ヘファイト」
オルフェがヘファイトと同じテーブルの向かいの椅子に座ると、カーリスが体を傾けてオルフェの顔を見る。
「やっぱり、麦酒はいらないの? 先生」
「うん、カーリス、これで」オルフェはカーリスへと、銅貨を一枚差し出した。
「美味しいものをお願い」
「はいよ、まいどあり」
カーリスは銅貨を受け取り、「ちょっと待てって、すぐに持ってくるから」と告げて、豊かな胸と大きなお尻を揺らしながら席から離れていった。
この居酒屋の料金形態は単純明快だ。前払い制で、銅貨一枚で麦酒のおかわりが自由。さらに銅貨をもう一枚足せば、メニューこそ選べないもののお腹一杯になるまで食べさせてくれる。
ちなみに葡萄酒も産地なだけあって、用意されているが、別料金になるので何か特別なことでもない限り、頼む者は少ない。なので通常はひたすら麦酒である。
つまり銅貨二枚あれば、一晩中飲み食いが出来るのだ。好きなだけ飲んで、食べて、騒いで、歌って、踊って――。そうやってここにいる村人たちは一日を締めくくるのだった。
オルフェはエールを飲めなくはないが、職業病だろうか、酒類をあまり摂取しないように戒めていた。
村人の中には飲み過ぎて急性中毒を起こしかけたり、勢い余って怪我をしたりと、夜になって診療所に運び込まれる場合もある。
そんな時に、自分まで酔っていては判断を誤る恐れがあるからだ。
「先生、少しくらいなら飲んでも大丈夫じゃないか?」
「いや、いいんだ。ヘファイト。もともとそこまで好きってわけでもないし」
「え、それ、本気で言ってんのか?」
ヘファイトがどんぐりのような目を見開いて、赤ら顔でぐいっと迫ってきた。
「信じられん。じゃあよ、先生。いったい何が楽しくって生きているんだ?」
別にエールだけが人生の楽しみの全てではないだろうに。ヘファイトの大げさな反応ともに襲ってきた酒くさい息に、オルフェは顔を歪めながら手で鼻と口を覆った。




