(五)ノ15
「ところで」と、マイヤは話題を変えてきた。
「今日は、オルフェ先生は?」
「村でお留守番です」
「そうですか。ご夫婦と、それにお嬢様と皆で一緒にとはいかないのですね」
「診療所を空けるわけにはいきませんから」
エウリーケは諦めたような小さな笑みを浮かべて、傍らで静かな寝息を立てるクロトの頭を優しく撫でた。
「オルフェ先生とも、久しぶりにお会いしたかったのですが」
マイヤはそう言って立ち上がると、背後の黒檀の机へと回り込み、その引き出しを開けた。
手のひらほどの小さな木箱を取り出すとまた戻ってきて、ソファに座り直しながらその木箱をエウリーケへと差し出してきた。
「これは?」
エウリーケは戸惑いながらもそれを受け取る。
「どうぞ開けてみて下さい」
言われるがまま木箱の蓋を取り、包み布を解くと、十センチほどの肉感のある植物の根の様なものが三本入っていた。
見ても正体が分からない。エウリーケはマイヤに問う為に目を向けた。
「オタネニンジン。その根を乾燥させたものです」
「オタネ、ニ……、何ですか? それ」
耳慣れぬ名前に、エウリーケは木箱の中へとまた視線を落とす。
「ここよりずっと東の国。船で行って帰るのに半年かかる遠くにある大陸に、コーライという国があります。オタネニンジンはコーライ近郊の山中にしか自生しない薬草なのです」
「うーん」と、エウリーケは唸った。
田舎村の狭い中でずっと生きてきたエウリーケにとって、船で何カ月も掛かけた先の国など途方もなさ過ぎて、どのような所なのか、その想像すら及ばない。
「と、いうのを」と、マイヤは言葉を続ける。
「オルフェ先生から教わりました」
「えっ?」
エウリーケが思わず顔を上げると、マイヤは僅かに苦笑を漏らして目を伏せた。
「私もメリクリウも、商売の為に様々な国へと足を運び、見聞を広めきたつもりでしたが、まったく存じませんでした。コーライという国も、その薬草のことも。お恥ずかしい話です」
「でも、どうしてオルフェが?」
「とても博識な方ですから、オルフェ先生は。直接お会い出来る機会はそう多く恵まれませんが、お手紙でのやり取りはさせて頂いております」
エウリーケは小さく頷いた。薬や医療器具について、オルフェがマイヤと文通しているのは知っている。
「このオタネニンジン、免疫、代謝機能の向上、消化器官の改善に、血行、自律神経の正常化など、とにかく様々にめざましい薬効があるとかで、コーライ周辺では仙薬とまで呼ばれているようです。昨年になります。手に入らぬものかと、オルフェ先生よりお手紙でご依頼を受けておりました。このような逸品、無知であった上にこれで入手に至らぬとあれば、我が商会の沽券に関わります。お待たせ致しましたが、東へとやった船が先月に戻りましたので。これがそのご依頼の品物です。どうぞ御収め下さい」
「それは、あの、わざわざありがとうございます」
エウリーケは勢いよく頭を下げた。「で、でも」と顔を上げながら、浮かんできた不安を口にする。
「代金は、おいくらになるのでしょうか? これ……」
もちろんこの為だけに船をやったわけではないだろうが、それでも半年も掛かけて仕入れてきた仙薬が安く済むとはとても思えない。
そうですね、とマイヤが済ました声で応えた。
「金貨で十枚といったところでしょうか。その三つで」
「き、きんっ!」
エウリーケは思わず叫びそうになって息を飲んだ。
六年物ですし、とマイヤは補足したが、だからそれが何だっていうのか。
とにかくとんでもない額だ。
村の居酒屋ならば、銅貨二枚で好きなだけ麦酒が飲めて、お腹一杯に食べさせてもらえる。それに今回、義妹が用意してくれた宿は、夕食付きの一泊で大人一人が銀貨一枚と銅貨二枚だった。
銅貨が十枚で銀貨一枚に、金貨一枚は銀貨十枚分の価値があり、それがさらに十枚である。
つまり、銅貨で千枚、銀貨でも百枚。
ひゃ、百ま……
エウリーケは目が回りそうになった。
「む、む、む、無理ですっ!」声が上擦る。
「そんなの、とても……、とてもお支払い出来ません」
エウリーケは両手を突き出して、オタネニンジンの入った木箱を返そうとした。マイヤは笑顔で首を横に振る。
「今のはあくまで現段階で商売するならばの話です。搬入コストや希少性を考慮すれば、それくらいの価値になるかと。でも、実際にはもっと値段を下げないと売り物にならないのは承知しております」
「だ、だとしてもです」
来月をどう節約してしのごうかと頭の中で考えていた矢先だ。金貨十枚はおろか、一枚でも払えたものでない。オルフェは価値も分からぬまま、とんでもないものを依頼したのだ。
「差し上げます」
「えっ?」
「そちらの三本は、オルフェ先生に差し上げる為に用意しておいたものです。もちろんお代を頂くつもりなどありません」
「え、あの、で、でも、どうして?」
「もちろん私共も商売人です。オルフェ先生といえど何の見返りもなく、このような貴重品を無料で差し上げるわけにはまいりません」
「ええ、それは分かります」
「取引したのです。オルフェ先生と。オタネニンジンはコーライでは仙薬としての名声を得ていても、その声はこのダイタロスには届いておりません。価値を知らなければ、誰も買ってくれません。オルフェ先生はオタネニンジンの成分を詳細に知識としてお持ちで、安全性と実施薬効についてはパーン司祭様を通して教会のお墨付きを得るよう働きかけるとお約束してくださいました」
「つまり、えっと、これはその為の提供品?」
「ええ、その通りです。教会のお墨付きがあればこのダイタロスでも商売になります。今回は小量しか仕入れられませんでしたが、ただ私共はコーライと正式に交易を結ぶべく動き出しており、そのきっかけはオルフェ先生で、もう、本当に感謝、感謝です。この三本程度では申し訳がないくらいです。コーライにはオタネニンジン以外にも商売になりそうな物がたくさんありそうなんです。もし順調にいけば、それはもう大きな利益が――。ああ、やはりオルフェ先生には、何か別のお礼もご用意しておかなければいけませんね」
最初は済まし声だったマイヤだが、話していくうちに饒舌になり、そして随分と熱が加わるようになっていた。頬には赤みが差し、内心の興奮を隠しきれずに表情から零れている。
エウリーケは呆気にとられ、口を半開きにして、目の前の女性の上気した顔を見つめた。
そうしながら思ったのは、タダほど怖いものはない、ということだった




