(五)ノ13
落ち着かない。
この部屋は初めてではないが、まだ指折り数えられる程度で慣れてなどいない。
では、回数を重ねれば大丈夫になるのかと問われれば、その自信もまたないのだが、とにかくエウリーケは今、そわそわと落ち着きがなかった。
大理石の猫脚のテーブルの上に、舶来品のティーカップが二組。紅茶が薄く湯気を立てながらバラの花のような芳香を漂わせている。
ティーセットに添えられた陶器の小さなポッド。その蓋を外してみると、中は白砂糖で満たされていた。
このような贅沢な嗜好品、村ではまずお目に掛かれない。甘党のカロンなら歓喜の涙を流しそうだが、エウリーケは恐れ多くてこの砂糖を使う勇気を持てそうになかった。
ポッドの蓋を戻し、そのままで紅茶を一口含んでみる。
誰が見ている訳でもないがとりあえず、うん、と訳知り顔で頷いておく。せっかくの高級茶葉であっても、緊張で味など分かったものでない。
だってぇ――
エウリーケは心の中で子供っぽく拗ねていた。ティーカップをソーサーの上に戻し、梟のように首をくるくる回して周囲を見渡す。
高い天井。壁には両手を広げるほどの大きな油絵がいくつも飾られており、広い床に惜しみなく敷き詰められた大理石が、不規則な流れ模様を描いて艶めいている。
調度品も立派で、黒檀の机にウォルナットの本棚。そしてエウリーケが娘と並んで腰かけているのが、アンカサスの葉の彫刻が施された脚に、金糸を織り込んだビロード張りのソファである。
田舎者にはこの部屋は場違いが過ぎた。傍らの娘の手前、母親として堂々たる態度でありたいが、質素な足首丈のチュニックワンピース姿では、あまりにこのソファに不釣り合いで、心穏やかに座ってなどいられない。
ただ、クロトのほうは疲れが出たのだろう。エウリーケの隣でうつらうつらと頭を揺らして、夢と現実の間を行ったり来たりとしている。
ここは交易都市ダイタロスの中心部にあるメリクリウ商館。
エウリーケはクロトと共に、その四階にある応接室へと通され、商館長の訪れを待っていた。
大商人メリクリウの活動の本店であるこの商館は、取引を求めて毎日、多くの人が押し寄せる場であった。
訪れた者はロビーで受付を済ませ、そして大口か小口かにまずは分けられる。
小口取引の一階は常に騒然としていた。
長いカウンターがフロアを分割し、二十数名の職員が一列に並んで、順番待ちで溢れる商談を効率的に手早く捌いていく。
それでも出遅れれば締め切られ、翌日以降に出直すことになるらしく、長い待ち時間に苛立ちの怒号が飛び交うほどの混雑ぶりだった。
それに対して二階から五階は、商館長や次席たちによるフロアとなる。それぞれに用意された複数の応接室で、船荷単位ほどの大口の商談が行われる。
エウリーケが扱える金額程度、本来なら一階で簡単に済まされるべきなのだが、受付でパーン司祭の署名が入った身元証明書と紹介状を提示すると、分不相応にも四階の応接室へと案内されたのだった。
まだかな?
エウリーケは暖炉の上に飾られた螺鈿細工の時計へと、ほとんど一分おき毎に目をやっていた。やはりまた、長針が僅かに角度を変えていただけだった。
まだ十分しか経っていない――。
この時計の正確性に疑問を抱き、針の次の動きを見逃すまいと凝視していると、暖炉の壁に大きな影が降りてきて、それがゆっくりと通り過ぎようとした。
エウリーケは陰につられて反対側へと振り返る。床から天井までに及ぶ巨大な窓ガラス。ついに夢の中へと落ちていったクロトを、そっとソファに横たわらせてから、エウリーケは静かに立ち上がり、そして窓の前へと歩み寄った。
四階の窓から見る都市の景色は目新しい。白い大きな帆の天辺と同じ目の高さ。それが静かに遠ざかる。
メリクリウ商会のものであろうキャラック船が、運河の中にあった。
三本のマストとスプリットセイルを備えた大型商船は、外洋から運河を渡って直接このダイタロスへと入ってくるのだが、大聖堂を背景に夕日で煌めく水面の中でのその姿は、まるで理想を描く壁画を見るように非現実的で、そして優雅だった。
運河を挟んで片方が、ダイタロス大通りからつながる大広場。人混みの中にキャラック船を指さして喜ぶ子供の姿が見て取れた。
様々な店が軒を連ね、エウリーケたちも先ほどまであの場にいたが、ここはとにかく人が犇めき続けている。
ただこの大広場は決して主役にはなれない。
主役は運河の向こう側。圧倒的な存在感。
ダイタロス大修道院――
大広場の運河に面した大聖堂の白い石積のファサードが、傾いた午後の陽光を受け止め、今は黄金色に輝いている。
二つの四角い塔が、視界の何よりも高く突き出ていた。四百以上ものらせん階段で上ることも出来るそれは、高さが八十メートルにも及び、まるでその二本で空を支えているかのような錯覚すら覚える。
大聖堂の至る所に群がる有翼の怪物の彫刻。ガーゴイルと呼ばれるこの怪物は、雨樋の役割を担っていた。
壁面の中央には、円形のステンドグラスのバラ窓が放射状に広がり、そしてその下に尖頭アーチの入り口。中に入れば、そこはダイタロスの領民の祈りの場である。
ただ、この大聖堂の向こうへと抜けることは許されない。
大聖堂から先は大修道院長をはじめ数百人の修道士が暮らする聖域だからだ。そして、その敷地面積は都市全体の三分の一近くも占めていた。
教会に正式認可された共同生活修道団体である修道会。その最高位でこの地を領主として治めているのがダイタロス大修道院長。大修道院長は教会での直接階位こそないものの、その権力は枢機卿に相当する。
そしてパーン司祭は、かつては修道士として、このダイタロス大修道院の中にいた人物だ。教会より司祭の叙階を受けてムーサイ村に赴任してきており、村の診療所は彼が創立したれっきとした教会の施設である。
救済を功徳と教えを説く教会にとって、奉仕は求心力を得るのに必要不可欠な投資で、孤児院や施療院、田舎村にまで診療所といった福祉施設を持つのはその為の活動だった。
そして資金源の多くを担うのが、メリクリウ商会の納める税である。
メリクリウ商会は大修道院長より、他国との交易と、領地内全てでの商売を一切の制限なく認められている。
もちろん得た利益の十分の一に、高額の商業権利代を上乗せして税を納めており、さらに寄進という名の賄賂も相当なものであろう。
それでもメリクリウ商会が大きくなれたのは、大金と引き換えにして得たこの特別な便宜である。
これからも商売を繁盛させていく為には、この関係は何よりも大切で、太く強く保ち続けなければならないものだった。
エウリーケは、名目上はパーン司祭の代理として訪れている。なのでエウリーケは上客として扱われ、わざわざこのように立派な応接室へと通されて今に至るのだった。




