(五)ノ11
昼下がり、エウリーケとクロトのいない休診日の診療所はやはり退屈で、オルフェは外へと出ていた。畦畔に腰を下ろし、畑の手入れに余念のない村人たちの、作業の様子を眺めて時を過ごした。
なだらかな丘陵地。一面に広がっているのは、腰上高ほどに稲を伸ばした麦の畑である。
春播きの麦はこれまで、子の成長を見守る親の気持ちで、オルフェの目を存分に楽しませてきた。
そして力強く若々しかった稲も今はもう、穂の重みに頭を僅かに傾け、枯れ気味の中年のように青みが褪せ始めている。
これからだ。いよいよ、黄金への色付きの気配が漂う。
ただこの広大な麦畑、実は村の農民に所有権のある範囲はごく僅かに限られていた。教会の直営地が大半を占めるのである。
直営地の耕作を行うのはムーサイの農民で、収穫物は一粒残らず全てを教会に納めなくてはならない。
これは賦役と呼ばれ、農民はひと月の内、十二日の労働課税を義務付けられていた。
慎ましい生活の農村からの人頭税や十分の一税など、教会からすれば高が知れている。
この労働力こそがもっとも重要で、ムーサイでは昔からそうだった。
ずっと、そういうものだと思ってきた。だから村の農民で不満を持つものはいない。当たり前と考えていないのはパーン司祭ぐらいだ。
パーン司祭は教会側の者として、賦役を課す立場にある。ただ、だからといって、一方的に働かせるのも、また快しとはしていないようだった。
雑草を抜き、ニクスに手ほどきしながら土を入れる。今日もその姿が畑の中にあった。
日頃の黒い司祭平服を脱ぎ去り、野良作業する姿は、がっちりとした体躯とも相まって、とても聖職に従事する者には見えない。実に違和感なく農民と馴染んでいた。
性に合っているのだろう。教会の礼拝堂に籠るより、こうして村人と一緒になって汗を流し、頬を土で汚している時の方が表情が充実して見える。
そしてパーン司祭がそんな人物だからこそ、村人は尊敬と信頼を寄せているのだ。
一方で、その光景を眺めているオルフェはというと、心に少しだけ疎外感が去来していた。
立てた膝の上に無事な方の左腕で頬杖をつき、ため息を鼻から抜く。
ムーサイの人たちは基本的に陽気だ。義務でしかないこの労働の中でさえ、交わし合う軽口に絶え間はなく、時に高らかな笑い声を重ねる。
診療所を運営するオルフェは、教会に属する身となるので、税は免除され、賦役も課されていない。
それでも見ていると、なんだかあの輪の中に自分も加わりたくて体が疼く。実は先ほど、実際に畑に入ってみた。素人ではあるが、麦穂がアブラムシに喰われていないか、確認して回る程度なら手伝えると思ったのだ。
すると村人たちは、こう言ってきた。
「先生、体に障るよ」
「こんなことはアタシらにまかせて、先生はゆっくりしときなって」
柔らかな笑顔を携え、言葉も優しい。ただ要するに、オルフェは仕事の邪魔だと体よく追い払われて今に至るのである。
「先生、お昼はちゃんと済まされましたか?」
退屈そうに独りで佇む姿を哀れに思ったのか、パーン司祭が近付き声を掛けてきた。
「ええ」オルフェは薄い笑みを浮かべる。
少し可笑さが込み上げてきたのは、皆がそうだからだ。視線は必ず、首から三角巾で吊り下げた右腕へと向けられ、痛くはないか、なにか不自由はしていないかと気に掛けてくれる。
「イーオおばさんが朝の内から来てくれていたので」
「ああ、それは羨ましいですね」
パーン司祭は小さく笑って頷くと、ふうと息をついてから、畑を抜け出てきた。
休憩するつもりのようだ。土手に上がり、背を仰け反らせ、腰の辺りをトントンと叩く。
そうしてからパーン司祭は、どっこいしょとオルフェの隣に腰を下ろした。「やれやれ」と、無意識に草臥れた声が漏れる。
「お疲れのようですね、司祭様」
オルフェが気遣うと、「まあ、そうですね」とパーン司祭は苦笑した。
「年は取りたくないですね。気持ちは若いつもりでも、私も気が付けばもうすぐ五十。体がついていきません。ニクスと一緒だと特にそう思います」
「ニクスと比べるのは――」
オルフェも思わず苦笑する。
「私なんか、まだ司祭様の半分ほどの年なのに、それでもニクスを見ればもう、よぼよぼのお爺さんですよ」
「あの子は、本当に何なのでしょうね」
パーン司祭はため息を交じえながら、畑の中で快活に動き回る小柄な若者へ羨みの目を向ける。
「あの元気。朝早くからずっとあれですからね。絶対に私どもとは何か違う動力源を持っているはずです」
「間違いないですね」
オルフェは真面目くさった顔をして同調してから、「でも」と気付いた。
「朝早くからとは――。司祭様、宜しいのですか? シスターを一人だけにしたままで」
オルフェが尋ねると、パーン司祭は「それなんですよねえ」と何やら歯切れが悪い。
「どうかしましたか?」
「ああ、いえ、ハルモニア。何故でしょう、ひどく機嫌が悪いのですよ」
「シスターが、ですか?」
「はい、それも朝の挨拶を交わそうとした時点でもう既にそうでした。訳が分かりません。私が一体、何をしたというのでしょう」
パーン司祭は納得いかない様子だが、オルフェは声には出さず心の中で、ああ、と呟いた。心当たりが思いっきりあった。
今朝のハルモニアとのやり取りを思い返す。
パーン司祭はオルフェからの診療所の助力の願い出を、ハルモニアに伝えた気になったままで完結させている。その所為でハルモニアは、オルフェの前でらしくない姿を晒すはめとなってしまった。
彼女からすれば醜態であろう。不機嫌の理由は間違いなくそれである。
「まあ、ハルモニアはあの性格ですから」と、パーン司祭の口調が何やら愚痴めいてきた。
「声を荒げたりとか、暴言を口にすることもないのですが……。ただ、やたら丁寧な言葉遣いとあの視線が本当に冷ややかで。もうね、体がすくみ過ぎて生きた心地がしません。心臓が止まるかと思いましたよ」
「それは――、分かります」
これについてはオルフェの身にも沁みている。だから実感を込めて同意した。彼女のあれは本当に怖い。
「つまり司祭様は、シスターから逃げ出てきたわけですね。ニクスまで連れて」
「情けない話ですが」パーン司祭は頷く。
「ニクスもすっかり怯えてしまって。置いて行かないでと涙目で訴えかけてくるものですから」
「ああ」
オルフェは眉根に皺を寄せ、ニクスに同情した。パーン司祭に関しては完全な自業自得だが、ニクスはただのとばっちり。機嫌の悪いハルモニアと二人っきりにされてはたまらないだろう。
「そんなわけで先生。今日は先生もお一人ですし、夕食をご一緒にと考えていたのですが、とても客人をお招き出来る状態ではなさそうです」
「ええ、そうでしょうね。やめておいたほうが良さそうです。残念ですが諦めましょう」
「私も残念ですよ」
パーン司祭は不満気な顔で応えてから、「まったく」とため息をついた。
私は司祭ですよ。なのに何故、私が逃げなくてはいけないのでしょう、などとブツブツ愚痴を零している。
ただオルフェは事情を知る者として、心情的にはハルモニアの味方だ。なのでパーン司祭に対しては苦笑で濁す程度に留めた。
そうしてから「それはそうと、司祭様」と、オルフェは話題を変える。パーン司祭に聞きたいことがあったのを思い出した。
「はい、何でしょう?」
「祈りの言葉」
オルフェは呟くように言った。視線を畑の中へと向けて、村人と談笑しながら作業するニクスを見つめる。
「ん?」
「あ、いえ、ニクスがそう言ったのです。司祭様は何やら耳慣れぬ言葉を口にされることがあるとか。それをニクスが祈りの言葉と」
「ああ」とパーン司祭は言った。
「ハイルング・フューア・ディーゼ・パーソン、ハイリヒ・リヒト・ゼーゲン――ですか?」
「え? あ、ああ、はい。確かにそう、それです。私は途中からしか記憶にありませんが」
「つい先日、ニクスにも訊かれました。何でも森で先生たちを助けたエルフが同じような言葉を口にしたとか」
「その通りです。私が今こうしていられるのはエルフのおかげです。信じてもらえないかもしれません。因果関係も証明できません。ですが、エルフのその言葉の作用で、私は命を取り留められた――。そう確信しているのです」
オルフェは顔を横に向けてパーン司祭を見た。パーン司祭は深い頷きを返した。
それはオルフェの話を信じるという意思表示だった。
「癒しを此の者に、聖なる光よ祝福を」パーン司祭が、ぼそりと言った。
「え?」
「その言葉の意味ですよ。癒しを此の者に、聖なる光よ祝福を――。古代語と呼ばれるものです。極めて原始的な言語で、これはかつて、先住民族ゲイマンが用いてたと伝わっています」
「ゲイマン民族が? では、やはりあれは、マ法の類だったのでしょうか?」
「私の立場では魔法と呼ばざるを得ませんが、おそらくそう考えて良いかと思います」
ゲイマン民族を滅ぼし、ニンフの森を領地としたのは教会である。
教会はゲイマンだけが使えた『マ法』を悪魔の力、『魔法』と恐れた。奇跡の現象を人々が目の当たりにすれば、その力を持てない教会は求心力を失う。
だから彼らを人のフリをした悪魔と烙印を押して迫害したのだ。
しかしオルフェは己が身をもって言い切れる。これは絶対に悪魔の力などではない。マ法なのだと。
診療所を営む者として、どれだけの薬草を用いても及ばない、この不思議な力にオルフェの心は強く惹かれていた。
ただオルフェがマ法を知りたくとも、もうゲイマン民族はとっくに滅び、存在しない。
「ではどうして」と、オルフェは浮かび上がってきた疑問を口にした。
「ゲイマンだけが使っていた言葉を、エルフが――」
「それは逆ではないでしょうか」
「逆、ですか?」
オルフェは聞き直した。パーン司祭は、そうです、と応えた。
「何故ゲイマンだけが使えたか。ゲイマンは森と共存した民族ですが、その彼らよりずっと以前から森を住処としていたのが森人です。エルフは私たち人間よりも精霊と近しい存在。マナを用いるのに精霊に呼び掛ける。古代語はその為の言葉だったのでないかと考えられています」
「つまりルーンは、元々はエルフの言葉で、それがゲイマンに伝わったと?」
「ええ、その可能性が高いかと」
「なるほど。確かにそれならば辻褄は合いますね」
オルフェは応えて頷くと、首を捻り遠くを見た。
ニンフの森――。あの森で出会った命の恩人。
美しかった。人と似通った姿でありながら、超然とした神秘性。
森に入れば、また彼女に会えるのだろうか?
オルフェはそっと苦笑した。それを望んでいる自分に気付いて、なんだかエウリーケに悪い気がしたのだ。
「しかし、さすがですね」
オルフェは気を取り直して言った。
「司祭様はなんでもお詳しい」
「ハハ、とんでもない」
パーン司祭は首を横に振った。そして何故か、短く言葉を詰まらせた。
「知っているのは、その一文だけですよ。私は教会から叙階を受け司祭となりましたが、元々は修道士。ダイタロス大修道院の中にいましたからね。あそこには大きな図書館があります。ありとあらゆる書物が収蔵されています。そこで閲覧したのが記憶あったに過ぎません」
パーン司祭はそう応えた。オルフェは違和感を覚えた。
なるほど、嘘は言っていない。でも何かを隠した。そう思った。
「それに」と、パーン司祭は続けた。
「私がそのルーンを唱えたところで、何も奇跡は起こりません。起こってくれません。私に――、一体何が足りないのでしょうか……」
声が、深く沈んだ。
「司祭様」
オルフェはどのように返すべきか、言葉が出てこなかった。
パーン司祭は以前、どれだけ祈りを捧げても、ただそれだけは救えなかった命を数多く見送ってきたと、そう言っていた。
だから診療所の創立は悲願だったのだと。
パーン司祭が覚えていた古代語の一文。
救えるのであれば、たとえそれが悪魔の力だとしても厭わない。そんな切実な思いから口にしたのだろう。
オルフェは心から思う。いや、これはオルフェだけではないはず。
ムーサイの村にとって、パーン司祭のような人物がこの地に赴任してきたのは、この上ない幸運なのだと。
きっと、そうに違いなかった。




