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(五)ノ10

  かつての内気さも、十五年も経てばもう昔のことだ。勝気そうに吊り上がり気味の目が、遠慮なく真っ直ぐにエウリーケを捉えている。

 むき出しの好奇心。ただ彼女は、いまいちピンとはきていないようだった。

「うーん」と唸りながら、テュケは小首を傾げた。

「つまり、えっと……、兄貴が義姉さんより大きくなるって言ったから、だから義姉さんは兄貴をってこと? でもさ、そんな程度で?」

「どうかしら?」

 エウリーケは近視故の癖で目を細めながら、そんな程度はヒドイなあ、と微苦笑を浮かべた。

 だってオルフェは、その約束をしっかりと果たしたのだから。苦手だった牛のミルクは、今も毎日欠かさずに飲み続けている。


「でも、そうね。きっかけでしかなかったのかも、それは」

「きっかけ?」

「そう。こうして思い返してみれば、やっぱり私、オルフェと出会った瞬間からだもの。だからオルフェがあの時にどう応えようと、もう関係ないわ。私の気持ちは変わりようがないのだから」

「ああ、そう、なんだ……。うん」


 テュケはしたり顔を装い頷いたが、ただやはり理解してなかった。エウリーケは少しだけ、彼女の心の内を知っている。

 男勝りな言動で外面を覆っても、内側の本質は変わらない。アスクレラスの娘で、オルフェの妹であることが自己の存在証明アイデンティティ。ずっと身内との繋がりが彼女の心の一番であり続けている。

 だからテュケは、男女間の心の機微には未だに疎く、ある意味で幼いままだった。


 エウリーケは、傍らのクロトへと目を向けた。クロトはエウリーケに体を預け、両足を投げ出していた。

 案外この子と、エウリーケは思った。あまり変わらないのかも――。それはさすがに言い過ぎだろうか?

 ただ実際に口してしまえば、きっとテュケはムキになって、そんなことないと否定するに違いなかった。それこそまるで子供みたいに。

 想像するとなんだか可笑しくなってくる。エウリーケは胸の内でほくそ笑んだ。するといきなり、荷馬車がガタンと大きく揺れた。


「おっと」カロンが声を上げる。

 何事かと荷車の上から後方に視線を落とせば、通り過ぎる土の道に大きめの石が姿を現し、そしてすぐに遠ざかっていった。どうやらこの石に車輪を乗り上げたらしい。

 クロトが疲れた表情で、抗議の目をカロンに向ける。

「カロン、クロトがあなたに文句を言ってるわ。もっと慎重にやってよ、だって」

「マジか? そいつはすまなかったな、嬢ちゃん」

 カロンは振り返るとクロトに向けて、ニカッと厳めしい顔には不似合いな愛想笑いを浮かべた。

「だからあ」と、テュケが険のある口調になる。

「前、向きなってば」

 今はテュケが雇い主だ。カロンはヘイヘイと首をすくめ、素直に従った。


 カロンは手綱を握り直すと、「しかし、さすがは先生の先生だな」とアスクレラスを妙な言い回しで形容した。

「背が伸びるのを止める薬なんてよ。マジでそんなものがあるとは思いもしなかったぜ」

「まさか」

 エウリーケはあっさり否定する。

「ないわよ、そんなの」

「ん? だってよ」

「だろうね」テュケはエウリーケに同調した。

「私だって、少しは母さんや兄貴から学んだ身だからね。とてもそんな都合の良いものがあるとは思えないよ」

「すっかり騙されたわ。アスクレラス先生には」

 フフ、とエウリーケは笑った。

「いや、しかし実際に先生が薬を……」

「違うの。実はアレ、ただの野草茶ツアイだったの」

「ツアイ? ツアイって、あのメチャクチャ苦いヤツか? 苦いのに、先生が好んでよく飲んでる苦いヤツ。アレ、ホントにスゲー苦えよな」

「うん、まあ、苦いのは苦いけど」

 何だってそんなに苦さを強調するのか。スゲーという程ではないはずだ。大の甘党だからか、カロンは苦いのが大嫌いだった。

 そう言えば以前に、オルフェに騙されたと思って飲んでみてと勧められて、何故か素直に騙されていたことがあった。カロンはその時のを思い出したのか、声はいかにも不快そうだ。


「えっと」

 エウリーケは宙を見つめ、「乾燥させたカ―ミレにローズマリー。後は、イノンドの種を砕いたもの、とか……」と指折り数えながら思い返し、そして途中で諦めた。

「それと、あと何だったけ? うん、まあ、そんな感じ」

 ただテュケはそれだけでも気付いて、「なるほど」と頷いた。

「それ、鎮静作用や保温効果のあるやつばかりだね。そっか、それで母さん、わざわざ夜に飲ませたんだ」

「そう。あの頃の私、寝ている間に大きくなるものだと思い込んで、それで起き続けていようと無茶してたから。だからアスクレラス先生は、ツアイを薬だと偽ったの。この薬を飲んでしっかりと寝れば、これ以上は背が大きくならないよ、てね」

「ああ、分かったよ」とカロンが言った。

「つまりそのツアイは、飲めば眠たくなるヤツだったんだな」

「うん、成分からして睡眠を促す為のものだもん。確かにそうだろうね」

 テュケはカロンに応え、「でも」と疑問を口にしながら、エウリーケに顔を向けた。

「エウリー義姉さんって、本当に実際、それからはあまり伸びていないのでしょ? 何で母さんは、もう大きくならないなんて言い切れたんだろ?」

「それはね、私の手足の大きさで分かったみたいよ」

「手足の大きさ?」

「うん、アスクレラス先生、私の靴を脱がせて履かせるのを苦戦したフリをしたり、手を取って撫でてみたりと、ああしながら実は大きさを測っていたの。これね、だいぶ後になってからオルフェが教えてくれたのだけど、私の手足って身長の割にはあまり大きくないみたい」

「それが、何か関係するのか?」カロンが訊いてきた。

「うん、ほら、カロンもノッポさんで、やっぱり手が大きいじゃない」

 カロンは自身の手を広げて見つめながら、まあ、そうだな、と頷く。

「確かに結構デカいほうだと思うぜ、オレは。足もな」

「でしょ? 普通はそうなの。手足の大きさって、大体が身長に比例するものらしいの。だから本来なら私も、もっと大きくないといけない。でもそうではなかったから、もうこれ以上は伸びないって、アスクレラス先生は見抜いていたのよ」

「へえ」と、テュケは感嘆の息を漏らす。

「そうなんだ。さすがは母さんだ」

 鼻息も荒く、薄い胸を張り誇らし気だ。


 ただカロンの方は、うーん、と唸り声を上げて、「だったらよ」と首を捻った。

「じゃあなんで、先生の先生はそう伝えなかったんだ? 放っといても大丈夫。もうこれ以上は大きくならない。だから心配するなって言えば、それだけで済む話じゃないか」

「バカなんだね、カロンは」テュケが容赦なく言い捨てた。

「ホント、そうね」と、エウリーケも同調して笑った。

「なんだよ」

 カロンはムッとして声を尖らせる。

「いい? 義姉さん、そのとき十歳にもならない子供だったんだよ。大人ならともかくさ。手足の大きさがどうとか、いきなりそんな説明されて、ああ、そうなんだって、理解して素直に受け入れられると思う?」

「それは、まあ、そうかもしれないが。でもよ――」

「根拠がね、必要だったの」と、エウリーケはカロンの反論を遮った。

「もうこれ以上は大きくならないんだ、というね。私がそう信じられるもの。言葉だけでは足りなかった。具体的な何かがないと、きっと私、駄目だったのだと思う」

「だから母さん、ありもしない薬を生み出したんだよ。あの時の義姉さんに必要だったのは、安心してちゃんと眠れるようにすること。それが母さんの治療だったってわけ」

「そういうことなの。アスクレラス先生、私に最高の治療をしてくれたわ」

 エウリーケは頷き、言葉に心を込めた。本当にそう思う。その日の夜は久しぶりにぐっすりと眠れた。眠りすぎて朝寝坊をしたぐらいだ。

 もしこの村に診療所が出来なかったらと思うと、ぞっとする。エウリーケはあのままなら、いずれ間違いなく心と体を壊していた。


 アスクレラスは子供エウリーケの悩みを真摯に受け止めて、それに応えた。オルフェとの約束は、ずっとエウリーケの心の支えであり続けた。

 それにテュケだって。

 ――次の日に薬を貰いに診療所を訪れると、オルフェにくっついたテュケの出迎えを受けた。恥ずかしがる姿に、お互いに照れてしまった。だから交わせたのは、たった一言のあいさつだけ。

 でもその瞬間、この診療所に居場所を見つけた気がしたのだ。

 こうしてエウリーケは、グライア婆に続いて二人目の常連となった。

「早いな」と、エウリーケはぼそりと呟く。

「もう、十五年も経つのか」

 昔話をしたからか、何だか感傷的な気分だった。


 しかしそんなエウリーケに対し、カロンの反応が薄い。ふーんと不愛想に呟いただけだった。どうやら馬鹿呼ばわりされたのが気に障ったらしい。

 エウリーケは、テュケと顔を見合わせて苦笑した。

「ゴメンね、カロン。お願い、機嫌を直して」

 エウリーケが謝ると、カロンは背を向けたまま、軽く手を上げてそれに応えた。

 するとクロトが、エウリーケの元を離れカロンの傍へと寄っていく。この子は空気を読むのが上手い。拗ねたカロンを慰めるつもりのようだ。

 カロンはクロトに気付いて、脇に置いていた片手剣ブロードソードをさりげなくクロトから遠くへと移した。いつもの大剣ツヴァイヘンダーは、鍛冶職人のヘファイトに修理に出していて、その間の代りとして借りた物らしい。


 クロトは御車台に座ると、カロンに寄り添うようにして体を傾けた。クロトを見るカロンの横顔が、優しく緩んでいる。

「もう、クロトったら」

 エウリーケは少しだけ呆れて、ため息交りに笑った。

 この子は案外、計算高い気がする。自分が周囲の大人たちから可愛がられる存在なのだと、理解して振る舞うフシがあった。

 魔性の素質を持っているかもしれない。どんな女性へと成長するのか、なんだか将来が末恐ろしい。


「おっ」と、カロンが機嫌の直った声を上げた。

「見えてきたぜ、水場だ」

 ほら、と腕を伸ばし指し示す。湖だ。街道沿いの草原の向こう、空を写し取り、群青色の水面が平らかに広がっている。

 カロンは馬車の速度を緩めた。後姿が少しだけ緊張していた。

「先客は、いないようだな」

 しばらく様子を伺っていたが、やがてカロンは警戒を緩めた。

 水場は生物が集まりやすい。先客とはつまりじゅうのことを意味していた。

 しかし今は大丈夫そうだ。ここまで頑張ってきた馬たちに、たっぷりと水を飲ませてやれる。ついでに用意しておいた飼葉も与えよう。

「やっとだあ」と、テュケが両手を突き上げて声を張る。

「もうさ、お尻が痛くって」

「フフ、私もよ」エウリーケも同調した。

「実は、オレもだ」カロンが乗っかる。するとその横で、クロトが負けじと小さな手を高く上げた。

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