(一)ノ6
「チッ、逃したか」
カロンは悔しそうに、尻尾を巻いて遠ざかる三匹の双頭犬を見送った。
ただ決して追おうとはしない。オルフェと女の子の安全確保が最優先。それが護衛役としての務めである。
オロベルスの姿が三匹とも森の奥に消えると、カロンは取り残された一匹へと近付き、足元に見下ろした。
オロベルスは、まだ辛うじて息があった。何とかこの場から逃れようと地面の上でもがき、そして苦しそうに弱々しく鳴いた。
「楽にしてやる」
カロンは無表情の中に微かな憐みの色を覗かせながら、大剣の刃を首元へと突き立てた。
オロベルスは断末魔の絶叫を短く上げて、体を硬直させた。
刃を抜く。そしてすぐに、もう一つの首にも同じようにして刺した。今度は鳴くことさえなかった。
伸びきっていた四肢が力を失い、地面へと垂れた。
オルフェは膝が抜け、木の幹を背に伝いながら腰を下ろした。
カロンが振り返って、顔を向ける。
「先生、怪我はしていないか?」
「ああ、大丈夫だよ。私も、それにこの子も」
「間に合った。良かった……」
「助かったよ、カロン。ありがとう」
オルフェは言葉に精一杯の謝意を込めた。だが、いや、と首を横に振るカロンの表情は何故だが冴えない。
ぼろ布を取り出して刃についた獣の血を拭い、背中の革ベルトにツヴァイヘンダー固定させると、真剣な面持ちで深く頭を下げた。
「先生、すまなかった」
「ん?」
オルフェは小首を傾げた。カロンに謝罪される理由が思い浮かばなかった。
「戻るのが遅くなっちまった。そんなに経ってたなんて思わなくて、先生を危険な目に……」
「あ、いや」
オルフェは理解した。カロンは自分が約束の十五分より遅れた所為で、獣に襲われたと勘違いをしているのだ。
悪いのはオルフェのほうで、カロンに何の落ち度もない。なのにカロンは自分を責め、オルフェを疑わない。
オルフェは申し訳ない気持ちになった。ただ、それと同時にカロンという男の純朴さに親愛の情が深くなるのを感じた。
すると何故だが、可笑しさが込み上げてきた。
思わず、フッ、と吹き出す。そしてクスクスと笑った。
「な、なんだよ、一体」
オルフェの態度に、カロンは戸惑いを見せた。
「あ、いや、すまない」オルフェは声に笑いを残したまま続けた。
「謝るのは私の方なんだ、カロン。キミはちゃんと時間通りだったよ」
「ん? いや、だって」
「あれにね、獣除けの効果なんてなかったんだ」
「え? なっ! ま、まさか先生、騙したのか? オレを」
憤慨するカロンに、そうじゃないと、オルフェは首を横に振った。
「失敗作だったんだ、あれは」
「失敗?」
「ああ、そうだよ。まぎれのない失敗作。あっという間に燃え尽きてしまった。何の役にも立たなかったんだ」
アハハ、と笑うオルフェに、カロンは「おいおい」と呆れた。ただそのカロンもやがて、つられたのかクックッと喉を鳴らす。
「それはないぜ、先生」と笑いだした。
一頻り笑い合い、込み上げた可笑しさが収まると、オルフェは「それにしても」と、口調を改めた。
「やはりさすがだね、カロン。あっという間に退けた。それに比べて私はなんと情けないことか」
これでも少しは鍛えているのだが、と自嘲するオルフェに、カロンは、そんなことない、と言った。
「先生は勇敢だったぜ」
「慰めてほしいわけではないんだ。ただ改めて実感しただけのことだよ」
オルフェは立てた膝に腕を乗せ、薄く苦笑いを浮かべながら、カロンの方を見る。
カロンは息絶えたオロベルスの傍らにしゃがみ、取り出したロープで四本の脚を一纏めに縛り始めていた。
「いや、本当にそう思っている」カロンは作業の手を止めないままに言う。
「オレみたいな輩ならともかく、普通はあんなのにいきなり襲われたら、その場で腰を抜かすか、まあ、そうだな、あとはビビって逃げようとする、ってところか。簡単にヤツらの餌食になるだろうな。もし先生もそうだったら、オレは間に合わなかった」
「逃げるタイミングを逸しただけだよ」
オルフェは謙遜するが、カロンは構わずに「それにここ」と、オロベルスの首元を指さす。
「毛が少し剥げている。今しがたのものだが、オレではない。先生だろ? 惜しかったな。あと数センチ深ければ頸動脈だ。ヤレてたぜ、これ」
何と返せば良いのか、オルフェは肩を少し竦めることで応じた。カロンは素直に称賛しているだけで、他意はないのだと分かっている。
だがそれは例えるならば、よちよち歩きの幼子に「歩くの上手ね」と、大人が褒めるようなもので、決して同じ立場としては見ていない。
オルフェとて男である。やはり少々複雑なものがあった。ただ同時に、自分がカロンの足元にも及ばないのも自覚していた。
だから反論は堪え、仕留めたオロベルスを器用に縛り上げていくカロンの作業の様子を眺めた。
「そいつは村に持って帰るのかい?」
「ああ、せっかくの獲物だ。ちょっとデカいが、まあ、担ぐのに支障はない」
オロベルスの毛皮は、剥いで街で売れば銀貨二枚程度になる。肉は繊維質で固いが臭みは少なく、特に干し肉の加工に適していた。
「それから先生、報告が遅れたが」と、カロンは続けた。オルフェは、うん、と頷き先を促す。
「周辺を見て回ったが、誰とも出会わなかったぜ。それにこれといって変わった様子もなさそうだった」
「じゃあ、この子の親が獣に襲われたか、どうかは」
「正直言って、それは分からん。小鬼にしてもこの二つ頭にしても、仕留めた獲物をその場で喰ったりはしないからな。基本的に巣に持ち帰る。だが少なくとも、争ったような形跡は発見できなかった」
そうか、とオルフェは応え、腕の中の女の子に視線を落とした。相変わらず意識喪失の状態が続いている。
もし村へと連れ帰れば、この子はもう、親と二度と会えなくなるのかもしれない。
だがこの周囲に誰も居なかったのならば、少なくともすぐの迎えはないと判断ができる。
そしてオルフェ達のほうも、この森に居られるタイムリミットだ。アテもないのにこれ以上は待ち続けられない。もちろん女の子をこの場に置き去りにする選択肢は最初からなかった。
改めて女の子を見つめる。高熱の所為で赤く染まる頬。目を覚まし、親が傍にいないと知れば、この頬はさらに赤くなるのだろうか。
寂しい思いをさせてしまう――
オルフェの心には、女の子に対する特別な情が湧いていた。
その時は好きなだけ泣かせよう、ずっと傍にいようと思った。大丈夫、いずれ必ず笑顔になれるから。
迷いは消え、オルフェは静かに息をつく。そして、意を決した。
「カロン、私はこの子を――」
「ああ、悪いがその子は」オロベルスを縛り終え、手の甲で汗を拭うカロンと声が被った。
「そのまま先生が抱いていてくれ。オレはこの二つ頭を、と」
カロンは縛ったロープを肩に担ぎ、双頭犬を持ち上げた。女の子をどうするか、それはこの男の中では既に決まりきっていたようだ。
「先生、戻ろうぜ。さすがにもう、日が暮れっちまう」
「ああ」オルフェは薄い笑みを浮かべて頷いた。
「そうだな、帰るとしよう」
オルフェは立ち上がり、カロンと肩を並べて帰路につくことにした。
この僅か数十分の間に、森は明るさを頼りないものへと変えていた。これでは村に帰り着く前に、暗くなってしまいそうだった。
急ぐ必要がある。連れ帰ると決めたからには、とにかく急いで村へと戻り、女の子をゆっくりと休ませたかった。
「ん?」
カロンが不意に立ち止まり、表情を固くした。
「どうした? カロン」
しばらく周囲を探る様子を見せていたカロンだが、やがて「いや」と首を横に振り、警戒を解いた。
「今、一瞬、何か気配がしたようなんだが……。まあ、気の所為みたいだ」
カロンは言ってから再び歩き出す。そう、とオルフェもそれに続いた。
人であれば、カロンが気取れぬはずがない。気弱な動物が、オロベルスの死体を担ぐカロンの異様さに驚き、逃げ出したのかもしれない。
「ところでよ、先生」
傍らのカロンが、何事か言いにくそうに切り出した。オルフェは、なんだい? と横目を向ける。
「そういえば、一個残ってたよな、飴玉」
「ああ」オルフェは頷いた。
「あれは私の分だよ。キミはもう食べたじゃないか」
「えっ? いや、でも先生くれるって……」
はて? とオルフェは茶目っ気のある表情になって、「そんなこと言ったかな」と惚ける。
「そんなあ」カロンは情けない声をあげた。
「あの時は正直それどころじゃあなくて、ぜんぜん味わえなかったんだよ。だからさ、先生、頼むよ。いや絶対言ったし、くれるって」
「覚えていないのだが」
顔の前で両手を合わせて拝むカロンに、オルフェは真剣な面持ちでそう返した。それでもカロンは、「くれるって言った」と引かない。
オルフェは最終的には譲る気でいたが、飴玉一つに必死なカロンが可笑しく、せっかくなのでもう少しだけ揶揄ってからにしようと思った。
もし女の子が意識が戻っていて、寝たふりをしながらこのやり取りを聞いていたのなら、いい大人がくだらない、とさぞかし呆れただろう。
オルフェは緩みそうになる口元を引き締め直し、カロンの必死の訴えを躱しながら村へと戻るのだった。