(五)ノ9
診療所ならばと思っていた。
日を追うごとに背が伸びてしまうのは、きっと何かの病気に違いない。同世代の子たちと群れれば、芝生の中の雑草のように場違いに高く飛び出てしまう。
診療所はパーン司祭が立ち上げた施設で、怪我や病気を診る所。
これは病気のはず。だからエウリーケは、勇気を振り絞ってドアを叩いたのだ。
でも、どうやら無理らしい。
背を小さくは出来ない――。そう告げた女性が、エウリーケの目の前で申し訳なさそうに眉根に皺を寄せている。
「そう、ですか……」
エウリーケは深く落胆した。
分かっている。彼女は何も悪くない。自分が勝手に希望を抱いただけ。
でも……、でも、じゃあ、どうしたら――
無情の宣告が、大岩のようにズシリと重い。心が圧し潰されそうだ。
「ただね」と、アスクレラスは言った。
「エウリーケちゃん、今ぐらいの身長のままなら、ガマン出来る?」
「え?」
「おばさんね、エウリーケちゃんの背を小さくしてあげることは出来ない。でも、もしアナタが、これ以上大きくならないのであれば、それでも良いと言ってくれるのなら、私、なんとかしてみせるわ」
「ほ、本当ですか?」
「うん、やれるわ。あ、でもいきなりピタッとは止まらないからね。そうね、あと数センチ伸びるかな?」
「じゃあ私、巨人にはならないの?」
「ならない。絶対に。私が保証する」
毅然とした声。アスクレラスはエウリーケの目を真っ直ぐに見据えて、そう言い切った。
エウリーケは口籠って、返答に窮した。これをどう受け止めれば良いのか、気持ちがどん底に沈み込んだ直後だっただけに持て余した。
「エウリーケちゃんが今のままだとして」と、アスクレラスは続けた。
「二、三年では、まあ、あれだけどさ。ただあと五年、六年もすれば、周りの子たちだって随分と成長する。特に男の子。きっとエウリーケちゃんを追い抜く子だって出てくるはずよ。そうしたらさ、その頃にはもう、ギガースなんて揶揄うヤツいなくなる。ねえ、そう思わない?」
そう、なのだろうか? よく分からない。エウリーケの頭の中はぐるぐる状態だ。
そんなエウリーケの様子に、アスクレラスはうーん、と唸って短く思案する。
「そうだ!」と、彼女は自身の両手を胸の前で叩き合わせた。
「オルフェ」
アスクレラスがベッドに腰かける愛息へと顔を向ける。つられるようにエウリーケも横目にやると、ちょうどテュケが、グライア婆の背後から兄へと身を乗り出そうとしている所だった。
しかし人見知りな女の子は、エウリーケの視線に気付いて、また慌てて老婆の背中に隠れてしまう。
エウリーケはなんだか申し訳なく、胸の内でゴメンねと謝った。
「ねえ、オルフェ」と、アスクレラスは改めて呼んだ。
「約束してくれない? オルフェ。アナタ、エウリーケちゃんより必ず大きくなるって」
思いもかけぬ言葉。エウリーケは「えっ?」と声を上げた。
「もちろん」
しかし間髪入れずに返ってきた答えは、迷いのないものだった。
「絶対に超えて見せる」
オルフェは少し不遜にも見えるほど自信あり気に、まだあどけない顔を引き締めて言った。
「ほ、本当に?」
まさかの展開に、エウリーケは恐る恐る同い年の男の子に問い掛けた。
「私よりも、大きくなってくれるの?」
そんな細い肩で? 女の子のみたいに華奢な手足をしているのに? 私、こんなに大きいんだよ?
それでもオルフェは揺ぎ無く、深く頷いた。
「誓うよ。必ず大きくなる。もう気に病まなくても済むように」
表情を緩め、小さな笑みを浮かべる。
「だから、大丈夫だよ」
エウリーケは思わず、息を呑み込んだ。
なんだろう――、この感情。
心が、陽だまりで微睡むみたいにポカポカと温かい。それでいて、あとほんのちょっと刺激されれば、なんだかもう泣いてしまいそうだ。
なんと呼ぶの? この気持ちを。
分からない。分からないけど、でも――
でも、もう平気。
だって、彼が自分よりも大きくなってくれる。それを信じられたから。
だからもう、平気。
五年でも十年でも、平気でその時を待っていられる。
エウリーケは口を開き、微かに息を吸い込んだ。
「あ、ありが、とう」
何とか、一言だけ。声が震えた。本当はもっと伝えたい。でも胸が一杯で、言葉が詰まって出てこない。
フェッフェッ、と奇妙な声。グライア婆が笑いだした。
「良いねえ。男前じゃないか、オルフェ」
「まあね」と、アスクレラスが小鼻を蠢かす。
「私の自慢の息子だもの」
「惜しいのう。アタシがせめてあと三十年若けりゃな。こんな見込みのあるええ男ほっとかなかったぞ」
「ダ、ダメ」
エウリーケが慌てて言う。オルフェが「え?」という顔になった。
「あっ」
恥ずかしくなって、エウリーケは顔を俯ける。
「ちょっと、お婆」アスクレラスが、グライア婆を睨みつけた。
「私のオルフェに変なこと言わないでよね。大体さ、三十年って何? それでも親子の年の差でしょうに。厚かましいのにも程があるってもんよ」
子供のことになると余裕を無くすのか、アスクレラスは冗談とも本気ともつかぬ調子で老婆を詰った。
ただグライア婆はまったく堪えていない。ひたすら上機嫌で、豪快に笑っている。
「オルフェや」と、皺を深くした笑顔のままで、優しく呼ぶ。
「なら、これからはちゃんと牛のミルクを飲めるようにならんとな。でないと、とてもとても大きくはなれんぞ?」
「おっ」と、アスクレラスが声を弾ませた。
「さすがはお婆ね。良いことを言うわ。その通りよ、オルフェ。今日から毎日だからね。分かった?」
「それと、これとは――」
「エウリーケちゃんの為よ。それとも何? アナタの誓いは、その程度の覚悟もない軽いものなの?」
ぐっ、とオルフェは言葉を詰まらせる。それから「分かったよ」と、憮然とした声で応えた。
「二杯だからね」アスクレラスが調子に乗る。
「だから分かったってば」
半ばヤケクソのようにオルフェは応えた。
アスクレラスは「よし、よし」と満足そうだ。オルフェもしばらく口を尖らせていたが、やがて諦めたように苦笑した。
目を細め、微笑まし気なグライア婆の背中越しに、テュケがひょっこり顔を覗かせる。
「ん? テュケちゃん、どうしたのかなあ?」
アスクレラスが気付いて、猫なで声で微笑み掛ける。テュケは無言のまま、何かを訴えた。以心伝心、「ああ」とアスクレラスは笑顔を溶かした。
「そうよね、テュケちゃんは、いつも飲んでいるものね。お兄ちゃんと違って。本当に良い子よ。とーってもエライわ」
母に褒められてテュケは嬉しそうだ。フン、と誇らし気に鼻息を荒くする。
エウリーケはまだ、この女の子と会話一つ交わせていない。今が好機だと試みようとしたが、その気配を察したのか、テュケはまたすぐに隠れてしまった。
「おやおや」
グライア婆が、背中に抱き付く小さな女の子に呆れた。
「じゃあ、エウリーケちゃん」アスクレラスが、エウリーケの意思を確認する。
「それで良いのね? 背は小さくならないけど」
「はい」
エウリーケは迷いなく、晴れやかに応えた。
「先生。アスクレラス先生。どうぞよろしくお願い致します」
「はい、確かに承りました」
ほっとした表情で、アスクレラスは頷く。
「では、治療を始めましょう。あ、痛いのは無しだから大丈夫よ。お薬を処方するから、エウリーケちゃんはそれを欠かさずに飲み続けてね」
「え?」と、エウリーケは拍子抜けして聞き返した。
「それだけ?」
「うん、そう。それだけよ。ああ、でもね、すごーく苦いからね。覚悟して」
「平気です。そんなの。ニガイのなんて全然です」
少しだけ脅かすつもりだったらしく、ただ全く怯まないエウリーケの態度に、アスクレラスは物足りなさそうに口を尖らせた。
「まあ、足を切る覚悟だったんだものね。苦いぐらい、そりゃ、そうか」
ふむ、と呟いて指で顎先を掻くと、体を椅子ごと半回転させて、ライティングデスクに正対する。
アスクレラスは更紙の上でペンを走らせながら、「オルフェ、来て」と息子を呼び寄せた。
「これ、お願いね」
ベッドから降りてきたオルフェに、そのメモを手渡す。
オルフェはそこに書かれている内容に目を通すと、不思議そうな表情になりながら首を傾げた。
ただ結局は黙ってコクリと頷く。そしてすぐに、壁に沿って並べられた棚の前へと移動した。
何を頼まれたのだろう。エウリーケはアスクレラスへと目を向けた。
アスクレラスは「ああ」と、薄く笑った。
「エウリーケちゃんのお薬をね。あ、大丈夫よ。オルフェにはしっかり教え込んであるから。だから心配しないで」
「あれは聡い子ぞ」グライア婆も後押しする。
「物覚えはええし、大概のことは器用にこなしよる」
「親バカのつもりはないのだけどね。でも、本当にそう思うわ」
アスクレラスはデスクの上で頬杖をつきながら、息子の手際を見守りつつ、そう言った。
へえ、とエウリーケは、声には出さずに感心した。オルフェの細い背中を見つめる。
同い年の子なのに、なにやら全然大人びて映った。
「エウリーケちゃん」アスクレラスが呼び掛ける。
「お薬は一日に一回。夜寝る前にお湯に煎じてから飲むこと。飲んだらすぐにベッドに入って、そして必ずしっかり眠るのよ?」
「え? でも?」
「このお薬りはね、ちゃんと寝て体を休めないと効果が出ないの。大丈夫、お薬が効くから。寝ている間に体が大きくなったりしないよ」
本当だろうか? だって、たくさん寝ればそれだけ大きくなると――
パーン司祭の言葉が、頭の中をよぎる。
束の間、逡巡して、しかしエウリーケは小さく首を横に振った。その言葉を頭の中から追い出した。
エウリーケは、彼女を信じたいと思った。
「はい、分かりました」
迷いを捨て、しっかりと頷いた。
「良い子ね」アスクレラスも頷きを返す。
「それから」と、彼女は続けた。
「今日の所は、お薬は一回分だけ渡すね。色々と聞きたいの。体に変調がなかったか、飲み続けられそうか、とかね。そうやって少しづつ調整していくから、だからまた、明日も来て」
「はい」
エウリーケは素直に返事した。そして、またここに来る理由が出来て、なんだか嬉しかった。
嘘みたいだ。あんなにも怖がっていたくせに。不安に心が圧し潰されそうだったのに。
今はもう、こんなにも軽い。
それに――
エウリーケの目は、ついついオルフェの後ろ姿へと向いてしまう。
また明日もね。
声に出さずに呼び掛ける。それだけなのに、心が跳ね上がった。
そして思った。診療所のドアを叩いて良かったと。




