(五)ノ8
肌の血色が冴えない、でもとても整った大人の女性の顔。椅子の上で上体を折り、すぐ間近へと迫ってきた彼女は、ふわりと柑橘系の香りを立ち上げて、エウリーケの鼻孔をくすぐった。
「あまり、眠れていないの?」
問いかけてくる声だけを聞けば、それはおどけているみたい。口元には微かな笑みも浮かべている。しかし赤黒いクマに縁どられた目が、戯れの色なくエウリーケをじっと見つめていた。
全てを見透かしてしまいそうな、独特の鋭さ。エウリーケは少し気後れをしながら、小さく頷いて認めた。
「コワくて……」
「怖い? 何が怖いのかな?」アスクレラスは、間髪入れずに質問を重ねてくる。
「寝ちゃうと――。朝、目を覚まして、またさらに背が伸びてたら、どうしようって」
見ただけで分かるほど、顔に出ているのだろうか。エウリーケは隠すように俯き、途切れ途切れに応えた。
今よりもさらに幼かった頃、子供はいっぱい寝て大きくなるのが務めですよ、というパーン司祭の言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
でもエウリーケは、これ以上は大きくなりたくない。だからなんとか眠らないようにと頑張ってきたのだ。
無理がある。体は疲れ、心は不安に擦り切れてしまった。もう堪えきれそうにない。
「あの!」と、声を張る。顔を上げ、アスクレラスを正面に見つめた。
「私、このまま大きくなり続けて――。それでいつか、巨人になっちゃう? そうなったら私、どうしよう。村にいられなくなる……」
「エウリーや、そんな――」
「お婆」
アスクレラスが柔らかい声で、しかし厳しく遮った。グライア婆は開きかけた口を、不満そうにへの字に歪める。
「ふむ」と、アスクレラスは小さく呟く。口元に浮かべていた微笑を消した。難しい表情へと変化させながら上体を起こし、椅子に深く座り直した。
するとエウリーケは、あれ? と思った。
さっきまではっきりと見えていたアスクレラスの顔が、僅かにぼやけたからだ。ほんの少し、距離が生じただけなのに。
そういえば最近は、なんだか遠くのものが見にくくなることが増えてきた。景色が霞んでしまう。
もしかしたら、という思いがよぎった。エウリーケは知っている。お話を読むのが好きだから。
パーン司祭が字を教えてくれて、たくさんの本を貸してくれる。
だから読んで知っていた。ギガースは、人とは物の見え方が違うのだと。
これは、人からギガースへ変化する、その兆しなのだろうか?
幼い心が急き立てられる。
「お願いです!」
エウリーケは、アスクレラスに深く頭を下げた。
「私の体、足でもお腹でも切って下さい。痛いの、ガマンしますから。背が小さくなるなら、どんなに痛くたって……。私、ガマン出来ます。ギガースになんて、なりたくない。だから――」
エウリーケは声に切実な思いを込めて訴えた。
ふう、とアスクレラスが息をつくのが聞こえた。
「エウリーケちゃん、とりあえず診てみようか。だから顔を上げて」
彼女の声は優しかった。なんだか心地が良く、少し安心する。
どうやらこれは、とんでもない頼みなのだと彼女の反応で分かった。風邪や擦り傷を治すのとは訳が違うらしい。
ただそれでも拒否はされなかった。なんだか希望が見えた気がした。
エウリーケはもう一度、お願いしますと言ってから、体勢を元に戻した。アスクレラスは頷いて応えた。
彼女の口元に、笑みがまた戻る。
「よし、じゃあ始めよう」
アスクレラスは快活に告げると、「ちょっとゴメンね」と前屈みになりながら腕を伸ばし、エウリーケの右足首を掴んだ。そして、ひょいとそのまま持ち上げて自身の膝の上に乗せる。
するとその勢いで、丈が脹脛まであるワンピースのチュニックの裾が大胆にまくれ上がった。
「ひゃああ!」
思わず、変な声を上げてしまった。太腿の中ほどまでが露わになる。男子がいるのだ。エウリーケは大慌てで裾を両手で押さえ込んだ。
ただアスクレラスからすれば、エウリーケは息子と同い年の子供の認識でしかない。だから幼い乙女心を構ってはくれなかった。今度はエウリーケの短革靴を脱がしにかかる。
男の子の前で……。なんてはしたない。
抵抗する間もなく裸足となったエウリーケは、顔を真っ赤に染めた。赤くなった顔を手で覆い隠したいが、そうすればチュニックの裾が疎かになってしまう。それはもっと駄目だ。
もちろん、アスクレラスが意地悪をしているのでないと理解している。彼女はきっと、この足をどのように切断するか、それを見極めようとしているのだ。
だからエウリーケは両目をぎゅっと閉じ、顔を俯けて羞恥に耐えた。
でもやっぱり体は強張り、小刻みに震えてしまう。
それでアスクレラスが、ん? と首を傾げた。
「ああ、そうか。そっか、そっか」と、苦笑する。エウリーケが恥ずかしがっているのだと、ようやく気付いたのだ。
「ゴメン、ゴメン。女の子だもんね」
うん、もう良いよ、とショートブーツを履かせようとする。ただ、革の靴は脱がすのは容易くとも、誰かが履かせるのは案外と難しい。
あれ? と手間取っているうちに、エウリーケの足がどんどんと高く持ち上げられていく。エウリーケは必死になって裾を押さえた。
「あ、あの!」たまらずに声を上げた。
「ん?」
「自分で、します、から」
そう? とアスクレラスは少し不満そうに口を尖らせ、それでも素直にエウリーケの足を床に下ろした。
エウリーケは急いでチュニックの裾を直し、ショートブーツの履き口を指で広げて履いた。
するとまた、アスクレラスが今度はエウリーケの手首を掴んできた。
自身の目の前へと引き寄せると、「はあ」と感嘆の息を漏らした。じっと見つめる彼女の表情が、何故だか恍惚に溶けている。
「やっぱり若い子のお肌は良いわねえ。もう、なんてスベスベなの」
幼い手の甲をさわさわと撫でる。
「オルフェなんかね、この頃は嫌がるようになっちゃったのよ。あんまり触らせてくれなくってさ。それに一緒に寝てもくれないのよ? ヒドくない? ヒドいよね? だからテュケちゃんだけだったの。最近の私の癒しは」
「先生や」と、すかさずグライア婆が自身の皺がれた手を差し出してきた。
「ホレ、アタシので良ければいくらでも触らせてやるぞ」
「ああ、いえ、ケッコーです」
アスクレラスは冷めた目で一瞥して、ばっさりと切り捨てた。
そんな期待通りのぞんざいな対応に、グライア婆は愉快そうに喉を鳴らして笑う。アスクレラスもフフッと小さく笑った。
「あ、あのう」
これは一体、何なのだろうか。エウリーケは戸惑った。嫌ではないが、いや、やはり嫌だった。
すごく悩んでいるのに――。茶化されているみたいで面白くない。
ただ、抗議しようとして気付いた。エウリーケは開きかけた口を閉じた。アスクレラスの目がまるで笑っていなかった。
「うん、そうだね」と、アスクレラスが頷く。握っていた手を、エウリーケの膝の上へ、ポンと乗せて解放した。
「エウリーケちゃん」アスクレラスが声を改める。
「は、はい」エウリーケも、気持ち背筋を伸ばした。
「ゴメンなさい!」
彼女はいきなり、深く頭を下げた。
「えっ?」
「無理なの」
アスクレラスは眉をひそめた顔を上げて、そう言った。
「無理?」
「うん、やっぱり無理だよ。足でもお腹でも、体を切ってまた繋げるなんて。おばさんね、どうしても出来そうにないの」
「え? あっ……」
「さらに言うとね、一度伸びた背を短くする方法も、まったく分からない。これでもさ、頭の中では一生懸命に考えていたのよ? でも、思い付かないの」
彼女は心底に申し訳なさそうだ。
背を小さく出来ない?
エウリーケは目の前が真っ白になった。




