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(五)ノ7

 遠い異国の地。

 少年は噂だけを頼りに、とある港町へと降り立った。

 一息を入れるつもりはない。少年の心は急いていた。人伝を辿り、行き着いたのは路地裏の古びた建物。躊躇いを振り払って、少年はそのドアを開けた。

 中に入ると、ロウソクの灯りが揺らぐ暗い部屋だった。古びたローブを身に纏い、フードを目深に被った老女が、枯れ木のような細い腕で、なにやら大瓶の中身をかき混ぜている。

 得もいえぬ、そんな不気味な光景を前にしても、少年には怯まぬ勇気があった。

 少年は老女に訴えた。病気の母を助けたいのだと。

 老女は、そうかい、と応えた。大瓶の中で沸々と煮えたぎる液体。何を材に用いればそのような色となるのか、随分とおどろおどろしい。

 ホレ、薬だ。コレを一息に飲ませな。

 老女は椀に掬って、少年の眼前へと突き出した。

 金貨一枚だ。払えない? まあ、いいさ。なら代わりに、お前の片方の目を貰おうかね――

 老女は糸のほつれた袖口から、ナイフを取り出した。

 ケッケッケッと、およそ人のものとは思えぬ薄気味悪い声で笑う。ナイフの刃がロウソクの火を映し、揺れて光った。


 隻眼隻腕の冒険者の一生を綴った、その少年時代の最初の旅の物語。

 子供のエウリーケが、さらに幼い頃に読んだ本の一幕だ。添えられた挿絵は、薄墨が乱雑に塗られていて、とても陰鬱だったのを覚えている。

 だから薬をくれるという診療所とやらに、エウリーケは勝手にそんなイメージを抱いていた。


 それがまるで違った。室内は明るく、そして清潔感があった。

 陽光がたっぷりと格子窓を透かして差し込まれ、板張りの床に十字の影を濃く描いている。

 壁に沿って並べられた大きな棚。そこ収められてあるのは、なにやら見慣れぬものばかり。

 ベッドは二つ。仕切る為のカーテンも備わっていた。ただ、大人が寝るには、少し幅が狭そう。

 エウリーケを案内してくれた男の子が、そのベッドの一つに腰かけた。宙に浮いた足を、膝を揃えてブラリと揺らす。


「おや? エウリー」

 ベッド脇の丸椅子の上、グライア婆が皺の深い顔を向けてきた。

 ちなみにこれは十五年も前の話なのだけど、お婆はこの頃からもう既に『お婆』と呼ばれていて、でもやっぱり見た目は今ほど老いていない。

 頬には多少の肉がまだ付いているし、肌のシミの数も、曲がった腰の角度も違っている。

 ただ面倒見の良さは今も昔も変わらない。グライア婆は、この時も小さな女の子の遊び相手だった。

 女の子は老婆の細い膝に体を預けるように甘えていて、しかしどうやら、エウリーケがその子を驚かせたようだ。

 女の子は室内に入ってきた長身女エウリーケの存在に気付くと、急いでグライア婆の背中へと回って隠てしまった。老婆の背中越しにエウリーケへと一瞬だけ目を向け、そしてまた、すぐに亀のように頭を引っ込める。

 微かに覗く髪は、男の子と同じ色。二人はきっと兄妹なのだと、エウリーケは理解した。


 そして、もう一人。ライティングデスクの前に座る女性。

 三十歳ぐらい。やや男性的なしっかりとした顔立ちに、やはり灰色がかったブロンドの髪。長く柔らかそうなその髪はとても豊かで、無造作に後ろ首の位置に束ねていた。

「さ、座って」

 彼女は声を弾ませて、自分の目の前の空いている椅子をエウリーケに促した。


 まずは初めましての挨拶からだね。

「アスクレラス」と、彼女は名乗った。

 すぐ間近で対面すると、目の下にぷっくりと赤黒いクマが縁取っていて、肌の血色がなんだか冴えない感じがした。

 ただそれを差し引いても、なお相当な美人だ。背筋を伸ばし、長い足を組む。椅子に座っているだけなのに、堂々とした姿が、とてもサマになっている。


「私の息子よ」と、彼女は細い顎をベッドのほうへと軽く突き出して、男の子をそう紹介した。

 ただ、言われなくてもそうだと分かる。一目見れば誰だってそう思う。それぐらいに男の子は、この女性の面差しを受け継いでいた。

 オルフェ――

 それが、男の子名前。

 エウリーケは胸の内で復唱する。絶対に忘れまいと、特に念入りに心に刻みつけておいた。


 続けて、先ほどからグライア婆の背中に隠れたままの小さな女の子。

 アスクレラスが「お名前、言えるかなあ?」と、幼い口調になって覗き込むと、女の子の髪がピクリと動いた。

「テュケ、ご挨拶は?」

 オルフェに優しく諭されても、殻を閉じた二枚貝のように出てこようとしない。

 やがてアスクレラスは、やれやれとため息をついて諦めた。そして、ゴメンねえ、と苦笑しながらエウリーケに謝罪する。

「あの子、すごい恥ずかしがり屋さんなの」

 エウリーケは、いえ、と首を横に振り、そうしながらオルフェの横顔をそっと盗み見た。

 柔らかい眼差し。きっと妹が可愛くて仕方ないのだ。


 今度はエウリーケの番。ただ、口を開こうと息を吸った途端、いきなり緊張が蘇った。その所為でたどたどしく、手短な自己紹介だけで終わらせてしまった。

 感じ悪く思われなかっただろうか?

 ただ、アスクレラスは特に気にするでもなかった。彼女は何より、エウリーケが診療所ここを訪れた理由を知りたがった。

 エウリーケは素直に打ち明けた。彼女にお願いしたいことがあった。


「えっ! なんでっ!?」

 まだエウリーケは話の途中。にも係わらずアスクレラスは声を張り上げた。グライア婆が、なんじゃ、と不快そうに顔をしかめた。

「いきなり大きな声をだしおって。心臓が止まるかと思ったぞ」

「ゴメン、ゴメン」

 アスクレラスは、後ろ頭を掻きながら謝る。

「でも大丈夫。そんな心配いらないよ。お婆の心臓、きっと毛が生えてるから。この程度で止まるような繊細ヤワなものでないよ」

 フンと、鼻を鳴らしてグライア婆は頬を歪めた。

「皮肉のつもりか? だが年寄りにはありがたいことぞ」

「ああっと、お年寄りの心臓なんか今はどうでも良かったね。えーっと、エウリーケちゃん。急に大声上げてゴメンね。たださ、足を短く切ってまた繋いでくれって。おばさん、さすがにちょっとビックリよ。でも、どうして? なんだってそんな」

「だって――」

 やっぱり、とんでもないこと言ったらしい。エウリーケは恥ずかしくなって、体を固くしながら赤らめた頬を隠そうと俯いた。

「お腹は、切ったら、スゴく痛いかな、って。それになんか、死んじゃいそうだし」

「そりゃあ、まあ、お腹を切ればね。って、いやいや、足だって痛いよ? あまりの痛さにやっぱり死んじゃうかもよ? あ、違う、そういうことでなくてね。あの、だからね、どうして短くしたいのかって、その理由を教えてほしいの」

「背を、小さくしたい、です」

「背を?」

 アスクレラスは聞き返してから、何でよ? と口をすぼめた。

「素敵じゃない。エウリーケちゃんは高いのがイヤなの?」

 エウリーケは、コクリと頷いた。

「みんなが、からかうから。私のこと、巨人ギガースだって」

「ギガースってそんな――。まあ上背はあるほうだけどさ。でも格好良いよ。あと二、三年もして幼さが抜ければ、エウリーケちゃん、めっちゃいい大人の女になるから。大丈夫、私が保証する」

 アスクレラスはどうも分かっていないようだった。それは彼女が、肝心な情報を聞き忘れているから。


 グライア婆が、「先生や」と助け舟を出してきた。

「エウリーは、まだ九つぞ」

「ん? 九つって、何が?」

「決まっておろう。年齢がじゃ。その子は九歳の子供ぞ。二、三年では大人にはならん」

「キュウサイ? キュウ……、えっ、九歳?」

 アスクレラスは素っ頓狂な声を上げた。「本当に?」と、見開いた目をエウリーケへと向ける。

「ら、来月には、十歳になるもん」と、エウリーケはグライア婆にあまり意味のない抗議をした。

「じゃあ、本当にそうなんだね」

 ほえーと、エウリーケは感嘆の息を漏らす。


「いや、ゴメンね? おばさん、エウリーケちゃんを勝手に十五、六歳ぐらいだと思い込んでたのよ」

「いえ」と、エウリーケは俯いたままで首を横に振った。「それは仕方ないと、自分でも、思う、から」

 そう見られるのには、もう慣れている。ただ、男の子――、オルフェの反応が気になった。

 エウリーケはまた、チラリと横目を向けてみた。やはりオルフェも、母親と同様に驚いたようだった。

 口を半開きにして、エウリーケをじっと見つめていた。だから、そっと伺うつもりが視線が合ってしまった。

 エウリーケは慌てて前へと向き直った。恥ずかしさが込み上げてくる。

 私のこと、変に思ったかな?

 そんな考えに及ぶと、何故だろうか? 心がズンと沈んでいく。


「実はね」と、アスクレラスが言った。

「ウチの息子もね、十歳になったばかりなの」

 ああ、やっぱりそうなんだ。

 同い年の男の子――。

 エウリーケの心は、今度は少し浮き上がってきた。

 ただもう、ベッドの方は見れない。そんな勇気はなかった。

「オルフェだって」と、アスクレラスは続ける。

「年の割にはだいぶ大人びている方よ? だから最近は、ちょっと可愛い気がないなって――、あ、いや、ウソ。ウソだからね? 本当は可愛い。ぜんぜん可愛いよ、オルフェ。ああ、じゃなくて。だから、そのつまり、だってさ、まさかウチの息子と同じとは――」

 アスクレラスは、しどろもどろに言い訳をする。エウリーケはなんと返せば良いのか、曖昧に頷いた。

 どうやら彼女は、思ったことをそのまますべて口にしてしまう人のようだ。

 なんだか、お話好きの司祭様と気が合いそう――

 そんな場違いなことをエウリーケは思って、小さな笑みをそっと口元に浮かべた。



「これは、また、突拍子もないな」

 前方の御車台の上で、カロンが苦笑交じりに言った。

「腹は死んじまいそうだから、足を切って繋いでくれなんて」

「思いきったわね、義姉さん」

 テュケもカロンに同調する。

「だって」とエウリーケは、むくれ顔で子供だった自分を庇う。

「伸びてしまった背を縮めるにはそれしかないって、当時はそう思ったの。仕方ないじゃない」

「だからって、ねえ?」

「なあ」

 テュケとカロンは含んだ顔になって、なにやら示し合わせる。

「もう!」とエウリーケは、まるで十歳の女の子のように幼く拗ねた。

「そんなだったら、もう話さないから。このお話はここまで」

「ああ、ゴメン、ウソ、ウソ」

 テュケが慌てて言う。

「冗談だから、義姉さん。だから、お願い」

 ね? とテュケは顔の前で両手を合わせて、エウリーケを拝んだ。

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