(五)ノ6
ドアをノックする。
もうすぐ十歳を迎えるエウリーケは、自身が鳴らしたその音に驚いた。ビクリとして、稚い顔を乗せた長身の体を縮こまらせた。
恐る恐る、そっと叩いたつもり。もっと軽くて乾いた音だと思っていた。
これは真新しい木製のドアの所為。付け替えられたばかりのこのドアが、しっとりと重く、低い音を響かせるから。
エウリーケはまだ子供で、それに今は極度の緊張の中にある。小さな勇気を包んだ未成熟な心は、栄養不足の鶏卵の殻のように薄く脆かった。だからそんな些細なことでもあっさり怯んでしまう。
ああ、帰りたい――
割れ目から勇気が逃げていく。足が勝手に動いて、一歩、二歩と、ドアの前から後摺りをした。
丘の上の領主別邸。教会の傍らにあるこの建物のドアの前で、エウリーケは尻込みする自分と格闘していた。
少し前まで、このマナーハウスは古く草臥れていたのだが、それが今では随分と若返っている。パーン司祭に頼まれて、村の大人たちが総出で大がかりな修繕をしたからだ。
領主である大修道院長が、何十年かぶりにこの村に視察に来るのでは? との噂も立ったがそうではなく、マナーハウスは、診療所という施設に生まれ変わった。
その建物の中から、「はい」と聞こえてきた。微かに届いた声に、もうほとんど回れ右をして立ち去るつもりだったエウリーケは引き止められた。
体が硬直する。もうこれで、逃げられなくなってしまった。
覚悟なんて立派なものは固められそうにない。只々心臓が、胸から飛び出てきそうな、大げさでなく本当にそう思えるほど激しく鼓動した。
お婆は、大丈夫って――。そう言ったもん。
エウリーケは必死に自分に言い聞かせる。いよいよ未知の世界に足を踏み入れるのだ。どうなってしまうのだろう。
「どうぞ、空いてますよ」
続けて聞こえてきた声が、先ほどより近くなった。ただ意外に、幼い高さのあるものだと気付いた。
女の子? 男の子?
どちらかは判別できない。
ただエウリーケは、自分と同じぐらいの子供であろうその声に親近感を覚えた。そしてそのおかげで、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩んだ。
ほう、と息をつく。何かが体の中から吐き出せた気がした。
もちろんすべてが抜けきれたのではないが、それでも逃げ出していた勇気が戻ってきた。おずおずと手を伸ばし、ドアノブを握って引き開ける。
「お、お邪魔します」
そっと中に入る。さすがは元は領主の館。ちゃんと玄関ホールがある。
充分に広さがあり、ここだけでもたくさんの人が入れそうだ。現に十人程度が座れるであろう長椅子が、これも真新しく拵えられてあった。
ただこれらはエウリーケにとって、目の端で捉えただけの物に過ぎない。その奥に部屋があって、ちょうどそこから姿を見せた、先ほどの声の主であろう相手に、エウリーケの意識は向けられた。
やはり十歳くらいの子供だった。
細い肩と華奢な手足。背は年相応で低いわけではない。それでもエウリーケの視線は下がり、相手は薄い色の瞳で自然と見上げてくる。
灰色がかったブロンドの髪がさらりと真っ直ぐに、肩にかかるほどの長さで切り揃えられてあった。
肌は白く、アマメシバの実のよう。そしてそこに描かれた目鼻立ちは、子供らしい丸さに、どこか大人びた鋭さも漂わせ、とても上品に整っていた。
なんと、まあ――
エウリーケはこの時、先ほどまでとは異なる理由で心臓が高鳴った。
女の子? あ、ううん、男の子だ。
具体的な何かで見分けたわけではない。一見では女の子みたい。しかし表情の作り方や立ち振る舞い、ちょっとした仕草で感覚的にそうと分かった。
「あの」と、男の子は言った。
「ノックの必要はありませんよ。日中はどうぞ、ご自由にお入り下さい。そうして頂いて構いませんので」
変声期を控えたまだ幼い声質で、やけに丁寧な物言い。
「あ、ゴ、ゴメンなさい」
エウリーケは慌てて謝った。ただそうしながら、少しだけ落胆する。
たぶん変わらないはずなのに。
エウリーケには、この男の子が自分と同じ年頃なのだと分かる。しかし相手はそう思ってくれなかった。エウリーケをずっと年上のお姉さんと認識したのだ。
この身長の所為だ――。エウリーケの心は、ナイフで薄く切られたかのように、一瞬の鋭い痛みに見舞われた。
「ああ、いえ」
男の子は、そんなつもりでは、とエウリーケの謝罪に短く首を横に振る。それだけで毛先が軽やかに跳ね上がった。
「ここは」と、男の子は急に声を改めた。
「診療所という教会の施設です」
「あ、うん」
なんだか唐突だ。エウリーケはとりあえず頷いた。
「怪我や病気を診るところで、手当をして薬もお出しします。えっと、無料です」
「うん」
「あと……、あ、そうだ。特にどこか悪いところがなくても、いつでも気軽にお越し下されば、こちらもとても嬉しいです」
「ありが、とう」
エウリーケは戸惑いながら応え、それから気付いた。
まるで暗記した台本を復唱するかのような物言い。これは、男の子自身の言葉ではなく、おそらく誰か大人に吹き込まれたものだ。
二人のもとに、沈黙の間が訪れる。
男の子は、今のは自分でもぎこちなかったと分かったようだ。
顔をそむけ、握り拳を口にあてて小さな咳ばらいをした。白い肌の頬に、赤みが微かに差し込まれる。
エウリーケはそんな男の子を、微笑ましく見つめた。よく出来ましたと、お姉さんぶって褒めてあげたい。
さっきまでの緊張が嘘のようだった。
*
アハハ、とテュケが大きく口を開けて笑った。
「そんなだったんだ、兄貴」
「うん」と、エウリーケは頷く。
「本当に唐突な説明口調でね。なのに無理して、語尾に抑揚をつけようとするから、それで余計に変になっちゃってて」
クックッと、前方の御車台で、カロンが喉を鳴らしながら背中を震わせた。
「想像つかないな、それ。今の先生からは」
カロンは最早、口を挟まないと言った自らの言葉は頭の中にないようだ。
「母さんに言わされてたんだね。兄貴も可哀そうに」
「そうだったみたいね」
エウリーケはテュケに応えて、今頃オルフェ、診療所でくしゃみを連発ね、とその光景を想像して頬を緩める。
クロトは、愉快そうにする大人たちに順繰りに視線を向けて、不思議そうな表情を浮かべている。
今は診療所は、その時のオルフェが言った通りに、村人の多くが気軽に訪れるようになり、社交の場と化している。ただ創立したばかりの当初は、すぐには寄り付こうとしなかった。
ムーサイの人はみんな、家族のような仲間意識がある。だがそれは、余所からの何かに対しての警戒心の強さの表れとも言えるのだ。
だから初めて見るそれに躊躇い、触れるのを恐れた。
そこで矢面に立たされたのが、オルフェだったというわけだ。
子供が出迎えて、ここはどういう施設なのかを説明をする。流暢である必要はない。手慣れてないほうが良い。たどたどしくも懸命であれば、その健気な姿に誰だって心が緩むはずだ。害意は微塵にも感じないだろう。
アスクレラスが考えたのか、あるいはパーン司祭のアイデアか。ともかくそれは、少しでも早く村に馴染みたかったが為の苦肉の策に過ぎない。
ただ功は奏した。少なくともエウリーケは、オルフェのおかげで怖がらなくなったのだから。
子供のオルフェが、診察室へのドアを開る。そして子供のエウリーケはその中へと踏み入れて――
これが、二人で一緒に歩み始める運命の一歩目だったのだ。
「中に入るとね」大人になったエウリーケは話を続けた。
「アスクレラス先生が出迎えてくれて。お婆もいたわ。それからテュケちゃんも、ね」
「私?」
「うん、診察室にいたわよ、テュケちゃん。でもその時は結局、一言もお話が出来なかったな」
「ん、何で? 私、寝てたの?」
ううん、エウリーケは首を横に振る。
「人見知りしたのよ。私が入ってくるのを見て。慌ててお婆の背中に隠れちゃった。それっきり全然出てきてくれないんだもん」
ありゃ、まあ、とテュケは頬を引きつらせる。
「まあ、なんだ。覚えてないし。二つ? 三つだったけ? 私。普通にそんなもんだよね? それぐらいの子って」
テュケが不安そうな目を向けてきた。さあ、どうかしら? とエウリーケはちょっと意地悪で首を傾げる。
「でも、お婆は呆れてたわよ」
ハハッと、テュケは短く苦笑して、「私も兄貴のこと、笑えないな」と顔を横に向けた。
荷馬車の上、景色は流れ続けるが、辺りはどこまでも変化の少ない平野が続く。
野草が音もなく風に揺れ、様々の濃さの緑色が波打つ。そこに交じってアブラナの黄色い花が、いくつもの顔を覗かせていた。
「美人、だったでしょ?」と、テュケは呟いた。
「お母さん」
テュケの横顔がなんだか、少しだけ寂しそうにエウリーケの目には映った。エウリーケは、静かに頷いた。
「とてもキレイ。すごくカッコ良くて、それに――」
「兄貴にそっくり?」
テュケが横目を向けて、にやりと笑う。エウリーケも薄い笑みを浮かべた。
「本当にそう。アスクレラス先生がもし男性だとしたら――。もう、そのままオルフェって感じ」
そうか、とエウリーケは思った。七年近くにもなるのか。彼女がいなくなって――
当時の彼女は《テュケ》はまだ子供で、きっとオルフェ以上に戸惑って、寂しかったに違いない。
兄と妹の二人だけになって、そのオルフェもやがて、エウリーケと結婚して。
そして彼女は、診療所を出ていった。自らの意思で。
オルフェはもちろん、エウリーケだって、テュケと一緒に暮らすつもりだった。だって診療所は、彼女の家なのだから。
だからこの子が、どんな思いでそうしたのか。エウリーケは時々、そのことを考えずにはいられなかった。
テュケが短く空を見上げた。それからすぐにエウリーケへと顔を向ける。もう切り替わっている。いつもの屈託のない顔に。
「さあ、義姉さん」と、言った。
「続きを聞かせてよ」
弱さを押し隠し、虚勢を張る。そうやって得た少しだけ吊り上がった目。彼女の瞳が、真っ直ぐにエウリーケを捉えた。




