(五)ノ2
小教区のムーサイでは、朝の祈りを村人は欠かさない。日の光を身に受けて、今日を平穏に迎えられることに、喜びと感謝の言葉を口にする。
どこにいても朝日は迎えられる。なのでその必要もないのに、わざわざ教会に出向いて、礼拝堂で捧げる者も少なくなかった。
そして教会での祈りを終えた後は、多くが傍らのアスクレラスの診療所へと立ち寄る。
だから診療所は、朝の早い時間から混雑した。
受診ばかりが目的ではない。村人にとって、診療所は社交の場でもあった。自身の健康の話、天気や畑の話、家族や友人の近況を語らう。待ち合いの玄関ホールは、いつもそういった人たちの順番待ちであふれていた。
つまりオルフェとエウリーケにとっては、平穏な一日の始まりとは縁遠いのが当たり前の毎朝だった。
ただその状態が一日中続くのかといえば、そうでもなかった。
村人はみんな仕事を抱えている。働かなければ生きていけないのだから当然といえた。年老いたグライア婆ですら、細腕で鍬を振るって土を耕しているのだ。
その為、賑やかで慌ただしいのは朝のうちだけで、午後に入ればもう、急患でもない限り、診療所は穏やかな時が流れている。
なのでテュケは、兄と話がしたい時は、午後からにしようと決めていた。
昼下がり、テュケが診療所のドアを開けた時も、やはり待ち合いには誰いなかった。思ったとおりに、ガランとしていた。
声を掛けながら、そのまま診察室に入ると、オルフェとエウリーケの二人だけで、薬や医療品の在庫確認をしているところだった。
「あれ? クロトちゃんは?」
テュケは挨拶もそこそこに、診察用のベッドに腰かけながら、辺りを見渡した。愛らしい姪っ子の姿がない。
「ああ、うん、司祭様のところ」
エウリーケが棚の中の止血帯を残りを数え、台帳に数字を書き込みながら応えた。
「お勉強をね、教えて頂いているの」
「勉強? あーあ、遂にか。クロトちゃんも大変だ」
それなら仕方ないかと、テュケは残念に思いながら言った。
クロトの珠のような頬っぺたを、むにゅっとしたかったのだが、アテが外れてしまった。
「いや」と、オルフェが作業の手を休め、診察用の椅子に座る。骨の折れた右腕は、三角巾で首から吊り下げていた。
「クロトは好きみたいだね、勉強するのが。テュケとは違って」
「あ、なんでわざわざ私を引き合いにだすかな」
むっとするテュケに、エウリーケが顔を向けて、クスリと笑う。
「でもクロトは本当にお勉強が好きよ。お利口さんなの。つい先日まで私がお話を読んで聞かせていたのに、昨日はね、もう自分で本を広げてるの」
「そうそう、エウリーなんか」と、オルフェは愉快そうに言った。
「その姿に感極まったみたいで、涙ぐむんだ。なんてエライのって」
「あら、それを言うならオルフェのほうが、よっぽどよ」エウリーケが口をとがらせてムキになる。
「スゴイなーって、クロトをいきなり抱きしめて。せっかく自分で読もうとしていたのに。邪魔しちゃうんだもん」
「いや、それは――」
「あー、はい、はい。分かった。分かったよ、二人とも。もういいや」
テュケは手を上げて、二人のやり取りを遮った。
この夫婦はとにかく娘にとことん甘かった。隙あらば、すぐにこうして惚気てくる。
ただテュケはぞんざいに返しながらも、心の中では別のことを思った。ほんの少しだけ、クロトが羨ましかった。
オルフェが言うように、子供のころのテュケは、確かに勉強が好きではなかった。
まだ幼く、母の小難しい話が理解出来なかった。だから退屈で、いつも逃げ回っていたのを、よく覚えている。
そして心に後悔が残った。
兄のように、素直にもっとたくさんのことを教わっておけば良かったと。
だって、思いもしなかったから。いきなり、いなくなるなんて――
テュケはふと、昔の自分に思いを馳せて微苦笑を浮かべつつも、「それよりもさ」と気持ちを切り替えて言った。
「兄貴、明日さ、私と一緒に街に行かない?」
「ダイタロスに?」オルフェが意外そうに聞き返した。
「明日って、ずいぶんと唐突だな」
「うん、まあ、そうだよね。でも、思いついたのが昨日だったもので」テュケは笑って応える。
「実はね、葡萄酒卸売商から葡萄酒の追加注文があったの。それで明日、私が納品しに行くことになったからさ」
「テュケが?」
オルフェが眉をひそめ、その傍らにエウリーケが歩み寄ってきた。
「大丈夫なの?」彼女は細めた目に、不安の色を覗かせる。
「それってテュケちゃんだけなの? そんなの危ないわ」
「心配いらないってば、義姉さん」テュケは応える。
「昨日ね、カロンに護衛をお願いしたから。快く受けてくれた。どうせ兄貴が怪我でしばらく森に入れないからって」
「ああ、それは良いね。カロンがいるなら安心だ」
オルフェがほっと、息を吐いた。エウリーケも、そうね、と頷く。この夫婦のカロンへの信頼は絶大だ。
「それでね」とテュケは続けた。
「その時に思いついたの。せっかくだから兄貴も一緒に行けたらなって。ちょうど休診日だし。ね、どうかな?」
小首を傾げながら、テュケは兄の目を覗き込む。
オルフェは吊り下げていない方の左手で細い顎をつまむようにして、「うーん、そうだな。ダイタロスかあ」と迷った様子を見せた。
ただ感触は悪くない。長年、兄妹をやっているのだ。それくらいは分かる。
するとエウリーケが、「行ってきたら? オルフェ」と後押しをしてきた。
「診療所を気にしているのだったら、大丈夫よ。休診日なのだし。私とクロトでしっかりお留守番するから」
「うん、ありがとう、エウリー。でもね――」
「それにね、ほら」とエウリーケは、胸に抱いていた台帳をオルフェへと差し出した。
「どのみち、近いうちに行かざるを得ないわ」
「ん?」とオルフェは台帳を受け取った。そしてそこに書き込まれた数字に目を落とし、「あー」と唸り声をあげた。
在庫が心許ないのだと、テュケは察した。
いくらオルフェが、ニンフの森の野草で薬を調合しているとはいえ限りがある。それだけですべてが賄えるわけではない。
加えて消毒液や止血帯など、医療器具はとにかく消耗品が多い。
それらはこのムーサイの村にはなく、ダイタロスにまで出向かなけば手に入らなかった。
「なるほど……。これは、たしかに」オルフェは難しい顔になった。
「でしょ?」とエウリーケは、対照的に優しい笑みを浮かべる。
「だから、ね、行ってきて。せっかくなのだもの。たまには診療所のことは忘れて、街で楽しんできてほしいわ。兄妹で水入らず――、あ、でもカロンがいるからそうもいかないのね」
「さっすが、エウリー義姉さん」
テュケは、指をパチンと鳴らした。
「ねえ、兄貴、行こうよ。もちろん馬車はこっちで用意するし、宿代はネゴシアン持ち。兄貴にとっても悪くない話でしょ?」
「え、宿代を?」
エウリーケが少し驚いたように聞き返してきた。
「うん、護衛役のも含めてね。三人分までは搬入経費として請求が出来るんだ。毎回、そうしているよ」
「まあ」とエウリーケが、日頃は細めている目を見開いて丸くする。
「どっかの教会に聞かせたい話だわ」
「エウリー」
オルフェは苦笑しながら、エウリーケを窘めた。
もちろん彼女が皮肉を口にした相手は、パーン司祭ではない。パーン司祭の上役で、診療所の運営額を決めている統括司教に対してだ。
「まあ、ともかく、テュケ」
オルフェはテュケを正面から見つめた。
「すまない、私はやめておくよ」
期待した返答でなく、テュケは「え?」と、戸惑った。
「な、なんで? せっかく義姉さんも良いって言ってくれてるのに」
「そうよ、オルフェ。どうして?」
「うーん、心配かけたくないのだけど――。正直に言うと、体に負担がかかりそうだ。今でもね、少し辛いぐらいだし」
「あ……」
「馬車の振動に、体が長い時間は耐えれそうにないなって」
「オルフェ」エウリーケが切ない声を上げる。
「ごめんなさい。そうよね、本当にそう。私、浅はかだったわ。あなたの体を気遣ってあげれていなかった」
「いや、それは違うよ。エウリーはとても良くしてくれている」
「でも!」
「本当だよ。毎日、実感しているんだ。エウリーが傍にいてくれて、私はなんて幸せ者なのだろうって」
「まあ」
たちまちのうちに赤く染まった頬に手を添えて、エウリーケが照れる。
「もう、オルフェってば」
「エウリー」
二人はうっとりとした表情になって見つめ合った。そして互いの顔の距離が、すうっと近付く。
「あ、あの、お二人さん!」
テュケはぎょっとして、慌てて口を挟んだ。私、ここにいますけど?
「ああ」
オルフェが気付いて、思いとどまった。エウリーケがテュケへと顔を向ける。明らかに不満そうだ。口にこそ出さないが、表情にははっきりと「邪魔」と書いてあった。
理不尽だ! テュケは心の中で訴えた。
私は妹だぞ。その目の前で、いったい何をおっ始めるつもりだったんだ、この夫婦は。
「まあ、そんなわけで」とオルフェが、意味もなく咳ばらいをして言った。
「すまないね、テュケ。せっかく誘ってくれたのに」
「ううん」テュケも気を取り直して、首を横に振った。
「仕方ないよ。兄貴の体の方がよほど大事だもん」
「ありがとう、テュケ。私も残念だ。それでね、一つお願いがあるのだが」
「うん? なに」
「エウリーとクロトの二人を、一緒に連れて行ってやってほしい」
「え?」と、エウリーケが声を上げた。
「私?」
「うん、いい機会だし、行っておいで。それにクロトにも賑やかな街を見せてあげたい。きっと喜ぶよ」
「いやよ!」
エウリーケは即座に拒否をした。
「オルフェを一人で残してなんて。あなた、怪我してるのよ。そんなの心配よ。私、行けないわ」
「うん、でもね、エウリーもさっき言ったじゃあないか。近いうちに街には行かざるを得ないって」
「それは、そうだけど。でも、それは別にまたの機会で――」
「考えるんだ、エウリー。テュケは、馬車も宿代も持つと言ってくれている。それでいったい、銀貨何枚分が浮くと思う?」
「あ……」
「分かるね? エウリー」
エウリーケの心の天秤に、片方の皿には愛する人を心配する思い。そしてもう一方の皿に、銀貨が一枚、二枚と乗せられていく。
「そ、そうね、そうよね、オルフェ」
エウリーケはすぐに意を覆した。『思い』よりも、銀貨の『重さ』があっさりと上回った。
「分かったわ。行くわ、オルフェ。私、行くわ!」
「うん」オルフェも満足そうに頷く。
「頼むね、エウリー」
いや、何を勝手に話を進めてくれているのだか。テュケは呆れて、大きなため息をついた。
でもまあ、と思った。それで良いかあ。
オルフェが望むなら仕方ない。テュケも何だかんだと、兄には甘かった。
こうしてテュケは翌日の早朝、護衛役のカロン、そして義理の姉と姪を連れて、ダイタロスへと立つことになった。




