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(五)ノ1

 二頭の葦毛の農耕馬が、今日は輓馬ばんばとして荷車を引く。

 御者台で手綱を握るのは、長身で赤髪の男。積み荷はオーク材を用いた葡萄酒ワイン樽が二つ。それと二人の若い女性に、幼い子供が一人。


 この馬車が出立する際はまだ薄暗かった周囲も、ムーサイの村を出る頃に朝を迎えた。

 荷車に幌はなく、見上げればいつの間にか、空はすっきりとした青色を塗り広げるようになっていた。


 遠くなる村。背後にはキュレネー山脈が雄大に広がる。溶けきることのない雪で覆われた峰が、鋭く切り立った尾根で連なっている。

 その中でひと際異彩を放つのが、ディスヴィア山。かつての噴火で大きな口を開け、形を歪に崩した山だ。

 噴火を起こしたのが、今より七百年程前だと伝わっている。ディスヴィアのカルデラは山頂から中腹にまで至り、それはまるで途方もない巨人が両手で掬い取ったかのように、大きく抉れた形になっていた。


 エウリーケは住み慣れた村の姿を、荷車の上から見つめ続けた。

 細めた目から僅かに覗くヘーゼル色の瞳。それは切なく、憂いを帯びていた。

 木製の車輪は、土の道の荒れを些かの吸収もせずに体へと伝えてくる。絶え間ない振動が、栗色のウェーブがかった髪の毛先を、肩の上を舞台に休みなく躍らせた。

 ただ農村で生まれ育ったエウリーケは逞しい。この程度の揺れ、彼女にしてみれば何てことない。


 それから娘のクロトも元気だ。ソワソワと落ち着きなく、狭い荷車の上で動き回っている。

 どうやら幼子にとって、馬車は物珍しい遊具になるらしい。流れる景色の中に何かを見つけては興味を示し、少なくとも今は、揺れによる負担よりも、楽しさの方が勝っているみたいだった。

 エウリーケはそんな我が子を、微笑ましく見守った。しかし心は沈んでいた。

 ここに、彼がいない。

 かけがえのない、いつもずっと傍にいてほしい人が、いない。


「オルフェ――」

 エウリーケはまた、背後の小さくなった村へと振り返った。

 一番高い丘にある、臙脂えんじ色の屋根の建物。アスクレラスの診療所と村の人は皆がそう呼ぶ。オルフェと結婚して以来、そこがエウリーケの我が家だ。

 その建物が霞んで、今にもう、見えなくなってしまいそうだ。

「オルフェえ」

 切なさに声が震えた。

 彼を残し、村を出る。エウリーケの心に、寂しさが募っていく。

「エウリー義姉さん……」

 遠慮がちに、テュケが声をかけてきた。

 エウリーケは言葉なく小さな頷きで応え、それでもまだ目を逸らさなかった。

 彼女は診療所が完全に視界から消えるまで、ずっと見つめ続けた。


 やがて診療所が遠くに隠れた。エウリーケはため息を零した。

 そしてようやく、義妹へと顔を向けた。テュケは葡萄酒ワイン樽を背もたれに、エウリーケと対面する位置で横座している。

 オルフェの妹である彼女は、日に焼けた健康的な肌をしていた。吊り上がり気味の目が、勝気な印象を与える。

 ただエウリーケは、彼女を幼い頃から知っている。

 元々は、色白で柔和なオルフェとよく似通っていた。そして、アッシュブロンドの同じ色をした髪。すっきりと整った顔立ち。

 やはり兄と妹だなと、エウリーケは彼女の面差しに、そっとオルフェを重ねて見つめた。


 そのテュケが胸の前で腕を組み、小さく息をついた。

「エウリー義姉さん」と、改めて呼びなおす。

「たった一日だよ? 何をそんなに――。ちょっと、大げさすぎない?」

「だって」

 テュケの呆れた物言いに、エウリーケは口を尖らせて、むくれ顔となった。

「怪我しているのよ? オルフェ。利き腕が折れて使えないの。心配だわ。ちゃんとご飯食べれるかしら。背中だって痛いの。昨夜も呻いてた。あまり眠れていないって私、知ってるわ。ああ、どうしよう。もし、もしもオルフェが一人の時に何かあったら――」

 エウリーケは思いの丈を一気に口にする。そして言いながら、燻っていた不安が急激に大きくなった。

「こうしてはいられない」と、思わず大きな声を上げた。

「カロン! ねえ、止めて! カロン。お願い、私、戻るわ。やっぱりダメ。オルフェを置いてなんて、そんなの無理! 私、行けない」

「ん? え、な、なんだ、急にどうした?」

 前方の御者台の上で、カロンが戸惑った。

「義姉さん!」すかさずテュケが窘める。

 肩越しに顔を向けてきたカロンに、テュケは「ゴメン、なんでもない」と首を横に振った。

「お、おう?」

 カロンは要領を得ぬままに前へと向き、手綱を握り直す。


 テュケがまた、今度はわざと大きく息をついた。

「エウリー義姉さん、お願いだから今さらそんなこと言わないで。大丈夫だって。兄貴、しっかり者だし、器用だから。片手が使えないくらい、どうにだってするよ。そういう人でしょ?」

「うん、それは、まあ、そうだけど――。でも、万が一のこともあるし」

「診療所は、どうせ村の人たちが押しかけてくる。みんな世話焼きだもの。まったく心配いらないって。それにさ、いざとなればハルモニアさんだっているし」

「ん、シスター?」

 なぜここで修道女ハルモニアの名前が出てくるのか、エウリーケは首を傾げた。

「うん、あの人、それなりの治療は出来るし、それに看護の心得もあるみたいよ。だからさ、もし兄貴に何かあったとしても、ハルモニアさんが対処してくれる」

「ああ、そう、なのね」

 エウリーケは頷いたが、ただ何だか面白くなかった。

「ふーん」と、口をへの字に歪める。

「なに?」

「彼女、キレイよね。それに私より若いし」

「あのね」

 テュケが――、七つも年下の義妹が、まったくの遠慮なしに呆れて見せた。

「嫉妬? ハルモニアさんは修道女シスターだよ。それこそ余計な心配。大体さ、兄貴だってそんな人じゃあないよ。信じなよ」

「それはもちろん信じてるわ。でも、でも――」

 信じている。それでもオルフェへの気持ちが強いだけに、些細であろうとも案じる思いがすぐに膨らんでしまう。

「ああっ!」と、エウリーケはまた声を大きくする。

「やっぱり戻る! 私、おウチに帰る。カロン、ねえカロンってば! お願い」

「はっ? え、な、なに?」

「義姉さんっ!」

「だってえ」

 エウリーケは情けなく言った。

 すると、荷車の中で動き回っていたクロトが、いきなりエウリーケの胸へと抱きついてきた。テュケに対して怒ったように抗議の目を向ける。

 どうやら母が虐められてると勘違いしたらしい。幼いなりに庇おうとしているのだ。

「いや、違うんだって、クロトちゃん」

 テュケは言い訳を試みようとして、すぐに諦めた。はあ、と大きなため息をつく。

「もう、いいや」

 そう言って、背にしていた葡萄酒ワイン樽に後ろ頭を預けて目を閉じた。


 そんなやり取りをしている間にも馬車は進む。ムーサイの村はもう、随分と遠くになった。

 目指すは『交易都市ダイタロス』

 ムーサイの村から、徒歩なら一日。幼子を連れた女性の足では二日でも届かない。

 ただ馬車ならば、重い荷を積んでなお、半日だった。

 夜が明けきる前に村を出たエウリーケたちは、今日の午後にはダイタロスへ入ることとなる。

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