(四)ノ32
オルフェ達へと押し寄せようする村人たち。最前列のパーン司祭が両手を広げて、それを押しとどめた。
「お帰りなさい、先生」
「ええ、ただいま戻りました」
オルフェは気を張りながら、なるべく平静な声で応えた。
今のオルフェは血の気のない、酷い顔をしているはずである。ただ松明の火が落とす影が濃く、そこまでは伺いようがないのかもしれない。
だからか、気取られる気配はなく、パーン司祭はほっと安堵の息をつくと、小さな頷きをみせた。
傍らには助祭のハルモニアが控えている。彼女の整った白い顔が、暗い空を背景に、火に揺らぎながら浮かぶ。
髪を大きな三つ編みに纏め、身なりを整え直した彼女は、いつもの無表情。いや、若干の柔らかさを携えているだろうか。オルフェの目にはそのように映った。
エウリーは――
彼女の姿を求め、オルフェは周囲を見渡した。村人たちの見知った顔が並ぶ。
ヘファイトにエクニオス、アルゴル――。エウパボと、そしてその脇のイーオに肩を抱かれるようにして、エウリーケがいた。
どれほど心細い思いをしていたのか。憔悴した顔だった。日頃は細めている目を微かに開き、オルフェをじっと見つめている。
何と声をかけようか。彼女の姿にオルフェは胸が一杯になった。
言葉が咄嗟に出てこない。黙って頷くことしか出来なかった。それでもエウリーケの表情が、僅かに緩んだ。
そして彼女もまた、言葉ないままに小さな笑みを浮かべて頷きを返した。不安の色は消えていない。問いたそうな目をしていた。
もちろん分かっている。クロトのことだ。
「カロンも、ご苦労様でした」
パーン司祭の柔らかい声。
この場にいるみんなが、クロトの安否に焦れていて、それはパーン司祭も同じはずである。
ただパーン司祭からすれば、森へと入ったオルフェたち三人の帰還が、まずは何よりだったのだ。
「いや、オレは当たり前のことをしただけだ」
カロンが応えると、「そうですか」とパーン司祭は目礼で返して、それからオルフェの後方を覗き込むような仕草をした。
「ニクス?」
パーン司祭が声をかける。しかし返事がない。
オルフェは振り向き、それで気付いた。ニクスはオルフェの背後で、身を隠すようにして縮こまらせていた。
「どうしました? ニクス。先生の護衛のお役目をしっかり務めましたか?」
「あ、はい。あ、いえ、その、司祭様……」
ニクスはしどろもどろだ。その態度でオルフェはすぐに理解した。ニクスは森で我を失ってしまったのを、後ろ暗く思っているのだ。
「司祭様」
オルフェはパーン司祭へと顔を向き直り言った。
「ニクスには感謝しかありません。私は森で、ずっと彼に頼りっきりでした」
庇うつもりはなかった。オルフェは本当にそう思って言ったのだ。
「先生……」
ニクスが意外そうな声でつぶやく。パーン司祭は満面の笑みを浮かべた。
「そうですか。ならば甲斐があったというもの。ああ、よくやってくれましたね、ニクス」
「あ、いえ、あの司祭様、オレ――」
「なあ、それよりもよ! 先生!」
ニクスの声は弱々しく、それは辛抱の効かないヘファイトの大声にかき消された。
「クロトだ。先生! どうだったんだ?」
「そ、そうよ、クロトちゃんは?」
イーオも耐えきれない様子で問いかけてきた。彼女のふくよかな手に肩を抱かれるエウリーケは、もう泣き出す一歩手前だ。
「ああ」
オルフェは微笑を浮かべた。一歩引いて、背後のニクスを促した。
クロトを抱くニクスは、おずおずとした様子で前へと歩み出た。周囲は固唾を飲んで、ニクスに注視する。
「あの、無事っすよ。クロトちゃん」
ニクスは遠慮がちに言った。クロトは眠っていて動かない。その所為で半信半疑なのか、みんなの反応は薄い。
「ほ、本当に?」
エウリーケは両手を胸の前で組んで、祈る思いに声を震わせた。クロトへと注いでいた視線を、オルフェに移す。
オルフェは大きく頷いた。
「本当だよ」
その答えに、エウリーケが息を飲んだ。祈りを解いた両手で、今度は口元をおさえた。
一瞬の静寂の間。
最初にそれを破ったのは、ヘファイトだった。
「うぉおおおー」
勇ましく、腹の底からの雄たけびだった。「よっしゃあ!」とエウパボが叫んだ。そしてそれを皮切りに、あちらこちらで歓声が上がる。
松明を持つ者は、その腕を高く上げてぐるぐると振り回す。そうでない者たちは手を取り合い、抱きつき、そして喜びを露わにした。
「クロトっ!」
矢も楯もたまらずに、エウリーケが駆け寄ってきた。息を乱しながら、クロトを抱くニクスの前で立ち止まる。
ニクスが「ほら」と、エウリーケにクロトの顔を見えやすくしてやった。これだけの喧騒の中にあって、それでもクロトは静かな寝息を立てている。
エウリーケは恐る恐る腕を伸ばし、娘の頬にそっと指先で触れた。
「さ、エウリーケさん」
ニクスがエウリーケの胸へとクロト抱かせてやる。エウリーケはクロトをじっと見つめた。
そしてようやく、母は娘の無事を確信した。
「クロト――」
日頃の彼女であれば、眠る娘を起こさぬように、そっと優しく包み込むだろう。
ただこの時ばかりは違った。感情を抑えきれなかった。
エウリーケはクロト強く抱きしめ、そしてその場にうずくまった。
「ああ、クロト。クロトお」
耐えきれずに泣き出した。エウリーケは声を上げて泣いた。
それでクロトも、さすがに目を覚ました。
寝ぼけ眼だった娘は、最初は戸惑いの表情を浮かべていたが、やがて母から感情を貰ったのだろう。何事かも分からぬままに、一緒になって泣き出した。
声はなく、大きく口を開けて、わんわんとクロトは泣いた。
良かった――
オルフェは心底そう思った。クロトを、娘をまたこうして、エウリーケに抱かせてやれた。そのことが何よりも嬉しかった。
やり遂げられた。オルフェの胸は充足感に満たされた。もちろん自分がしたことなどは、たかが知れている。
これは森に入ってくれたカロンとニクス。それにパーン司祭や村の人みんなのおかげ。
だからこその光景。分かっている。
村の人たちも我がことのように喜んでいる。そしてクロトを抱きしめるエウリーケを、優しく見守ってくれていた。
そんな中、パーン司祭がハルモニアを伴い、そっとオルフェの傍に寄ってきた。
「お三方とも、本当にお疲れ様でしたね」
カロンが「ああ」と軽く片手を上げ、ニクスは黙って頷いた。そしてオルフェは、小さく頭を下げた。
「司祭様、それにカロン、ニクス。この度は本当に色々と――」
「よしませんか? 先生。そういうのは」
オルフェの言葉を、パーン司祭は遮った。
「こうして帰ってきてくれて、クロトちゃんも無事に保護出来ました。もうそれだけで充分。私は今、とても嬉しいのです。これに勝るものは何もありません。大満足です。お二人もそうですよね?」
「ああ、もちろんだ」
「オレも。すげー嬉しいっす」
パーン司祭は、カロンとニクスのそれぞれへと問いかけ、二人は間髪入れずに応えた。
オルフェの気持ちは、皆が理解している。だから改まる必要などないのだと、パーン司祭はそう言った。
「それにしても、凄いなあ」
ニクスが周囲を見渡し、嬉しそうに言った。
「みんな、出迎えてくれて」
「ええ、まあ、それはそうなのですがね」と、パーン司祭が苦笑いを浮かべて、そして黙った。代わって助祭のハルモニアが口を開いた。
「司祭様は、終時課の鐘の音を鳴らすまでと伝えたのですが。ただ誰一人として聞き入れてくれなかったのです」
「まったく、困りものですよ。本当に」
やれやれと、パーン司祭はため息をつく。どうやら村人を諫めるのに、またひと悶着あったようだ。
オルフェは薄く笑った。この村の人らしいと言えばその通りだ。先ほどパーン司祭が不要と言ったように、確かに誰もオルフェの謝罪や感謝の言葉は望んでいそうになかった。
クロトを保護し、オルフェもカロンもニクスも無事に帰ってきた。村はまた、平穏な明日を迎えられる。
ムーサイの村人はそれを喜んだ。
改めて周囲を見渡す。どこからか宴が始まっていた。
エウパボとイーオが、店から樽を持ち出していたらしい。麦酒を煽りだす者があちらこちらで続出した。
肩を組み、歌う。
これは収穫の、喜びの歌だ。それに合わせて踊りだす。
なんだ、とオルフェは苦笑した。みんな最初から、こうするつもりで集まっていたのだ。
村の中は探しつくした。ならば後はクロトの無事を信じ、オルフェたちは必ず帰還するのだと疑っていなかった。
村人は毎夜の如く居酒屋で麦酒を飲み、一日の疲れを癒す。今夜はその場所が外に変わった。それだけの話だ。
「銅貨一枚だからねー」
イーオが普段通りに麦酒の料金を請求し、それを聞いた村人の誰かが「今夜はタダじゃないのかよ」との冗談交じりに不満を口にする。周囲もまた、それに同意して、笑い声が重なった。
賑やかな雰囲気にあてられたのか、ニクスはそわそわと落ち着かない様子だ。首を右に左にとやり、「うわあ」と口の中で呟く。
「ニクス、私は先生とお話しますから。あなたはいいですよ」
パーン司祭が、行ってきなさいと促してやる。
「はい!」ニクスは顔を綻ばせた。そしてカロンの腕を取った。
「カロンさんも! さあ、行きましょう」
「ん? あ、おい、ニクス」
ニクスは戸惑うカロンに構わずに、強引に引っ張って場を離れる。そしてすぐ近くのヘファイトとエクニオス、エウパボとアルゴルたちの輪へと加わった。
「おお、ニクス。それにカロンも、よくやってくれたなあ」
さっそく、ヘファイトの丸太の様な太い腕が、小柄なニクスの肩に圧し掛かる。
そしてこの村で誰よりも強いカロンは、エクニオスやアルゴルにとっての憧れの存在だ。
「カロンさん、森はどうでしたか?」
「なんかヤバい獣に遭遇したりとかは?」
矢継ぎ早に質問を重ねてくる若者たちに、カロンも満更ではなさそうだ。
アルゴルだけは明らかに空元気だが、それでも無理にはしゃぎ、父親のエウパボに「お前は反省しろっ」と、頭を脇に挟まれて締め上げられた。
オルフェはその様子を微笑ましく見守った。ただそうしながらも、気にかかることがあった。
いるはずの二人の姿が、ずっと見つけられないでいるのだ。
「お婆はテュケと一緒なのかな? 見当たらないけど――。みんなに紛れるのだろうか?
「オルフェ先生」
ハルモニアが、抑揚のない声で告げようとした。それをパーン司祭が手を上げて遮る。
「あの、先生、お婆さまですが、実は――」
改まった物言いに、オルフェは一瞬にして緊張した。
「急に、激しく咳き込みまして」
「え、お婆が?」
「はい。あ、でも程なくして落ち着きました。ただお疲れのご様子でしたので、診療所で休んでもらっています。今はテュケさんがついてくれているので、大丈夫とは思いますが」
「そう、ですか――」
その報告は、オルフェの心を暗くした。早くなんとかしなければと、俄かに感情が急かさせる。
「あの、オルフェ先生。あのように乾いた咳は――」
「きっと、この度のご心労が、お体に障ったのでしょうね」
ハルモニアの言葉を、またもパーン司祭が遮った。どうやら二人の様子を見るに、何か感付いているようだった。
「オルフェ」
耳に馴染んだ優しい声で、呼びかけられた。
エウリーケがクロトを抱きしめたまま、オルフェへと顔を見上げていた。細めた目から流れる涙に頬が濡れて、松明の火がそれをキラキラと照らしている。
「ありがとう、オルフェ。本当に、本当にありがとう」
彼女のその言葉は、オルフェの心を温かくしてくれる。オルフェはグライア婆への憂慮を、一旦は押し込めた。
「うん」と、小さく微笑んで頷いた。
「そして、お帰りなさい。お疲れさまです。オルフェ」
「うん」オルフェはもう一度頷く。
「ただいま、エウリー」
エウリーケも微笑んで、小さな頷きを返した。
オルフェは満足した。これでもう、何もかもの全てが報われた。心からそう思えた。
すると、突然だった。
これまで張り詰めていたものが、ふっと緩んでしまった。急に力が膝から抜けていく。
何だろうか、思考が鈍くなった。
目の前が霞ががる。松明の炎がブレて、そして、何も見えなくなった。いきなり真っ暗になった。
どうして? どうして松明が全て消えたのだろうか――
「オル、フェ?」
エウリーケの声が、やけに遠くに聞こえる。自分は立っているのか、それとも倒れているのかも、それすらも曖昧だった。
「先生っ!」
これはカロンだろうか? いや司祭様? ニクス? もう、誰かも分からない。
叫ぶ声がした。切なく響く、悲鳴。
ああ、これはエウリーだ。
すぐに分かった。
オルフェは、彼女の声は聴き分けることが出来た。
しかし、それだけだった。
闇に、意識が飲み込まれていく――




