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(一)ノ5

 オロベルスは犬として見れば大型だが、地面から肩までの体高で一メートルを超える個体は少ない。

 それでも真っ黒な短毛で覆われた全身は、発達した筋肉を強調するかのように隆起し、意思をそれぞれが持つ双頭のその姿は奇怪であり、そして充分に脅威であった。


 この双頭犬は大抵が家族単位で行動するが、稀に若いオスだと単独の場合もある。ただし今回の場合は前者であろうと、オルフェは察した。

 草が摺れる音がしたのに、現れたのは岩場のほうから。

 つまりまだ他にいる。複数匹であることを示している。


 その推測が正しいのは、すぐに証明された。オルフェの右手側からもう一匹、さらに左手側からも一匹、草の茂みを分けて、黒い姿を見せた。

 オルフェはすでに囲まれていたのだ。やはりじゅう除けのハーブは、まるで効果を発揮していなかった。

 それどころか、普段はしない奇妙な匂いを嗅ぎ付けて、おびき寄せてしまった迄ある。


 三匹のオロベルスは、黒い顔に白く鋭い牙をむき出にして、じりじりと慎重に距離を詰めてきた。二つの頭を地面に這うように構え、グルルッ、グルルッと唸り声を低く響かせて威嚇する。

 オルフェは懸命に耐えた。相手は恐怖を与え、怯む隙を伺っているのだ。

 カロンとの約束の時間までは、まだ五分以上残っている。オルフェの時間感覚は一時間程度までならズレはない。

 たかが五分。

 それでも非力な大人と、無力な子供を狩るのには、充分すぎる時間だろう。


 絶望的な状況とも言えた。だが、これがゴブリンの群れであった場合よりかは、まだ希望があった。

 単体での強さならゴブリンよりも、目の前のオロベルスのほうが遥かに上である。

 だがこの双頭犬は、怪我を負うことを極端に恐れる。すぐに襲ってこないのはその為だ。

 群れてはいるが、ゴブリンほどの共同体意識を持たないオロベルスは、怪我を負い、狩りの役に立たなくなれば、家族であっても見捨てる。

 それどころか、飢えていれば共食いまでするらしく、たとえその場で食われなかったとしても、手負いが単独で生き抜けるほどこの森は優しくない。

 他のじゅう、それこそゴブリンなどに群れで襲われ、餌食となる運命が待つのみである。

 それ故に、この獣はその獰猛な見た目に反して慎重、言い換えれば臆病な性格をしていた。


 オルフェの希望はそこにあった。

 この場にいる全てのオロべルスを倒す必要はない。どれか一匹に一刺し。それだけで、この群れが引いてくれる公算が大きい。

 それにオルフェには、どれが最初に仕掛けてくるのかが分かっていた。


 オロベルスが襲いかかってくる――

 目の前の三匹ではない。右後方から音がした。

 それは四匹目の存在。そう、最初の三匹は、オルフェの注意を引き付ける為にわざと姿を見せた囮だ。

 怪我のリスクを恐れるのなら、取るべき戦法は死角からの奇襲。予想通りであった。


 オルフェは女の子を庇いながら、体を反転させる。後方から飛びかかってきた四匹目のオロベルスの牙を辛うじて躱した。

 そして同時に、短剣を持った腕を伸ばして弧を描く。それはむなしく空を切った。


 だが惜しかった。僅かに掠めたらしい刃先が、双頭犬の黒い体毛を宙に散らした。

 奇襲が失敗し、危うく怪我を負いかけたオロベルスは動揺を見せた。そしてそれは、そのまま群れへと伝染する。

 警戒を強め、二撃目はすぐに仕掛けてこない。唸り声を盛んにあげながら鼻筋に皺を寄せ、自慢の鋭い牙を見せつけてくるばかりである。

 実力差からいえば、一斉に飛びかかるだけで終いのはずだが、この森で生き残る為の警戒心の強さが、逆にオルフェの命を長らえさせていた。


 飢えているのか、オロベルスは皆一様に口から大量の涎を垂らし始めた。

 オルフェなど骨と皮ばかりで、大して肉などついていないが、内臓がじゅうにとってのご馳走だとも聞く。鳩のように空に飛べず、兎のようにすばしっこくもないのだから、非力な人間は格好の獲物であろう。


 ご馳走オルフェを前にして、膠着状態から焦れた一匹のオロベルスが、じりじりと慎重に間合いを詰めてきた。他の三匹もそれにつられるように倣う。

 木の幹を背にしたオルフェは、後退が叶わない。四匹との距離は狭まり、それは先ほどの跳躍力を見れば、一跳びでオルフェの首元に噛みつけるほどになっていた。

 次は躱せない。オルフェはそう感じた。


 これまでかと観念しかけた。その時、四匹のオロベルスは一斉に、ぴたりと動きを止めた。

 双頭の内の一つはオルフェに向けたまま、もう一つを自分たちの後方へと首を曲げる。

 耳がピクピクと動く。音の出所を探っているようだ。何かが近付いてきている。

 そしてその何かは、オルフェの耳でも聞き取れるようになった。


「先生! 無事か?」

 事態に気付き、遠くから駆けてきたのだろう。息が上がったままの声だった。

 岩陰から姿を見せたのはカロン。それはまさにオルフェにとっての救世主だった。

 オルフェは安堵から、思わず涙ぐみそうに高まった感情をぐっと堪えた。

「カロン、ご覧の有様だ。すまない」

 オルフェは女の子を抱きかかえたまま、逆手に持った短剣の構えを解くことなく、助けを求めた。


 もちろん分かっている、とカロンは帯剣用の背中の革ベルトを外し、すぐさま戦闘態勢に入る。

 本来なら両手で構えるべき大剣のツヴァイヘンダーを、軽々と片腕で持ち上げて肩にかけると、半身の体勢で足を開いて腰を落とした。

「この群れのリーダーは……」カロンは素早く目を動かして、品定めをする。

「お前、だな!」

 掛け声と共に、カロンは地面を蹴った。狙いは一番近くにいた双頭犬ではない。

 その奥の体の大きな一匹へと距離を詰める。そして勢いよく自慢の大剣を斜めに振り下ろした。


 だが俊敏さではオロベルスのほうが勝る。カロンの斬撃をひらりと横に躱すと、別の一匹が背後から首筋めがけて飛び掛かった。

 これは、カロンの誘いだった。

 カロンは前転でその牙から逃れ、回転した勢いを利用して大剣の刃先を持ち上げる。

 ツヴァイヘンダーは弧を描き、宙を舞う双頭犬の腹部を下から深く切り裂いた。

 血飛沫ともに、甲高い絶叫が響く。

 腹を裂かれたオロベルスは、一度は着地したがすぐに脚を折り、地面に伏した。


「まずは一匹」

 カロンは呟きながら立ち上がる。息をつくこともなく、最初に狙いを定めた一匹へとまた切りかかる。

 標的となったオロべルスも素早く反応した。すぐに跳び退いて、カロンとの距離を保った。

 仕切り直しかとオルフェは一瞬思ったがそうではなく、見ると、双頭犬の腰が引けていた。


 もう既に戦意を喪失している。カロンの先ほどの一撃で、敵わぬ相手と理解したのだ。

 オロベルスは頭を低くし、殆ど伏せに近い体勢でジリジリと後退りする。

 そしてカロンとの距離が、一跳びでは斬撃が届かない程度に広がると、身を翻し、一目散に逃げ出した。それを合図に、後の二匹も焦った様子で続く。

 オロベルスとの戦いは、カロンの圧勝であっけない幕切れだった。

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