(四)ノ31
ルリビタキが木枝から飛び立つ。すうっと高度を落とし、オルフェたちのすぐ目の前を横切った。その際に短く鳴いた。
もし言葉が通じたのならば、「しからば御免」とでも言ったのかもしれない。
村までの案内の役目を終え、青い小鳥は森へと返す。
カロンが足を止めて、その姿を目で追った。カロンに背負われているオルフェも、自然と同じようにして見送った。
ルリビタキが咥えたヤコウダケの光が遠のく。無事に村まで導いてくれたその光は小さく淡いもので、あっさりと闇の森の中へと溶けて消えてしまった。
「じゃあな」と、カロンがかすれ声で呟いた。
唯一の明かりを失い、周囲は真っ暗で彼の表情は伺えない。ただその一言は、感謝と労いの意を込めたものだった。
「行きましょう」
ニクスが促し、それでもカロンはすぐには反応しなかった。やがて「ああ」と、応えた。
向き直り、再び歩き出す。その僅かな間は、名残り惜しかったからだろうか。
村はもう目の前。カロンとその背におぶさったオルフェ。ニクスと腕の中で眠るクロト。
四人は遂に、ニンフの森を抜けた。
「村だあ」
ニクスが気の抜けた声を上げる。
ほう、とオルフェは息をついた。水の音が明瞭になった。レーテ川の流れが絶え間なく、静かに囁くように奏でている。
そして空気が変わった。
ああ、そうだ。この匂い。オルフェはそっと、深く息を吸った。帰ってこれたのだ。ムーサイの村に。空気を貯めた胸の内に、言いようもないほどの安心感が広がる。
何も遮るものがなくなった空を、オルフェは見上げた。星が無数に煌めき、月が丸くぼんやりと浮かんでいた。
その下でキュレネー山脈の稜線が、より一層の黒い影となって塗りつぶされている。
村は起伏に富んだ丘陵地で、その家屋はどれも灯りが灯っていない。暗がりにひっそりと佇んでいた。
ただムーサイの村は、決して寝静まっているわけではなかった。
目の前を流れるレーテ川は、雄大な水面を今はオレンジ色に揺るがせる。石の橋脚の上を渡る木造橋が照らされ、その姿が浮かび上がっている。
松明だ。いくつもの松明が、物見櫓とその麓に集まっていた。
そして人の姿があった。一人や二人ではない。レーテ川を挟んだ対岸に、大勢が群れている。この数は、ムーサイの村人のほとんどではなかろうか。
「あ、先生だ!」
村人の誰かの声が対岸から届いた。オルフェたちに気付いたようだ。
それを皮切りに、おーい、おーいと、次々に呼ぶ声が続くようになった。松明の火が一斉に、右に左にと揺れた。
「これは――」
思いもよらぬ光景を目の当たりにして、オルフェは声を詰まらせた。
「おいおい」と、カロンが苦笑交じりに言う。
「随分と大層なお出迎えだな」
「ええ、ホントっすよね。わあ、みんな来てくれたんだ」
ニクスが嬉しそうに応じた。
ただオルフェのほうは、申し訳なさのほうが勝った。
「心配をかけてしまったな――」
「え? 先生、ダメっすよ。そんなこと言ったら、かわいそうっす」
「かわいそう?」
意外に思い、オルフェは聞き返した。「ええ」と、ニクスは当然のように言った。
「ホントはみんなだって、森にクロトちゃんを探しに入りたかったんっすよ。でも、司祭様や先生が絶対にダメって言うから。だから我慢したっす。せめて心配くらい目一杯にさせてあげましょうよ。それも出来ないなんて、そんなのかわいそうじゃないっすか」
「なんだよ、それは」カロンが短く笑った。「でも、まあ」と続ける。
「そういうことよな」
「ええ、そーいうことっす」
ニクスも言ってから、フフッと笑った。オルフェは、なんと返せば良いのか戸惑った。訳の分からない理屈だ。
「じゃあ、先生」
カロンは「よっ」と、背中のオルフェをおぶり直した。
「せっかくだ。胸を張っていこうぜ」
「ん? ああ、――いや」
オルフェは頷きかけて思い直した。先ほどのニクスの訳の分からない理屈が、遅れてすうっと腑に落ちてきたのだ。
なるほど、そういうことか。確かにそうだった。この村の人たちの性格を考えれば、心配するなというほうが酷な話だ。
「カロン、私を下ろしてくれないか?」
「え?」と、カロンが意外そうに返す。
「いや、しかしよ。先生、大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。このままでは私もキミも胸を張れないじゃないか。自分の足で歩いて、出迎えを受けたいんだ」
「ああ」と、カロンは声をあげた。
「そうか……。まあ、そりゃあ、そうだよな」
オルフェの気持ちをカロンはくみ取ってくれた。
ムーサイの村の人たちの思いを、オルフェは堂々として受け止めたかった。おんぶされたままでは格好がつかない。
カロンが屈み、オルフェは背からおりた。自分の足で大地を踏みしめる。力が入らない。よろめくと、すかさずカロンの手が伸びてきた。
「先生……」
背後からニクスが心配そうに声をかけてくる。オルフェは振り向き、小さく頷いた。
痛みは――、正直よく分からない。今さらだ。
だから、大丈夫。歩ける。
自分に言い聞かせて、姿勢を直す。
足を一歩前へ。そしてまた一歩。
ゆっくりとだが、着実にオルフェは前へ前へと歩みを進めていく。
レーテ川は森と村とを別つ境界線。そして木造橋は、その二つをつなぐ唯一の道である。
約三十メートル。森から、そして村へ――
息はすぐに上がった。松明の火がブレて見える。見知った顔が並んでいるはずだが、今はどれが誰だかは分からない。ただ、呼び掛けてくる村の人たちの声が、オルフェを気丈にさせた。
そしてオルフェは、木造橋を渡り切った。村へと帰ってきた。自分の足で。
待ちかねた村人たち。オルフェたち四人を中心に、いくつもの輪が重なった。




