(四)ノ27
オーガが真っ直ぐに突進してくる。カロンは震える足に無理やり力を込め、地面を蹴った。
「グッ!」
思わず声が漏れた。体が軋み、強い痛みが一気に駆け巡った。それでも堪えながら、迫る巨躯の背後に回り込もうとする。
しかしオーガが、カロンの動きに反応していた。
無理か――
カロンはすぐに判断してもう一度、地面を蹴った。二度、三度とバックステップして距離を取り直す。
ふう、と短く息を吐く。これでカロンは思い知った。
鈍重な相手に付いてこられるほどに、今は動けていなかった。オーガから受けたダメージは深刻ではないが、決して小さくもない。
それに距離感も合っていなかった。
カロンは手のひらを、左瞼の傷に押し当てた。ぬるりとした感触。
傷口がパックリと割れているのが分かる。随分と深く切ったようだ。出血が多い。手で拭う程度ではとても追いつかない。
カロンは顔を歪めた。片目というのは何とも戦い辛いものだ。
流れる血に左目が覆われて、視界が狭まるばかりか、オーガとの間合いも測り損ねてしまう。
オーガがまた、詰め寄ってくる。カロンも構えを直した。
興奮状態にあるオーガの攻撃は、はっきり言って滅茶苦茶だ。ひたすら突進して太い腕を振り回す。その一辺倒である。ただそれだけに始末が悪い。
破壊力はさすがに抜群で、肉体は強靭。それに今のオーガは退くことを知らない。
中途半端な反撃では、また先ほどと同じ轍を踏むのは目に見えていた。そして次はもう、体が耐えられない。
どうするべきか――。カロンは集中力を高める。儘ならぬ体を叱咤しつつオーガの攻撃を躱し、そして頭は目まぐるしく考えを巡らせた。
オーガにしても、これほどの巨体で激しく動き続けるのは相当な負担のはず。もうとっくにスタミナ切れのはずだが、まだその気配がない。感情の昂ぶりに肉体の疲労に気付けないのだ。
カロンの方も、ダメージのある体では悠長な戦法は取れない。積極的に倒しにいくしかなかった。
ならば対オーガの戦い方は変わりない。膝を切り崩し、動きを止める。それが定石だ。
オーガの肉体は鋼の如く強靭だが、カロンの大剣ならばそれも問題なかった。
オーガは太い腕を風車のように振り回す。長いリーチに一撃必殺の破壊力。
ただそれはもう、さんざんに見せられた。とっくに見切っていたものだ。反撃は出来る。
その為にすべきは、自分が今はどれだけ動けるのか、冷静に体の各部位を一つ一つ確認していくこと。そして片目での距離感のズレを修正する。
オーガが苛立ちを爆発させた。逃げてばかりのカロンを捕らえられずに、業を煮やしたのだ。
大きく吠え、両手を組んで頭上高くに掲げる。そして両拳のハンマーを、カロン目掛けて振り下ろした。
カロンは後ろに跳んだ。オーガの拳が沢を叩きつける。水飛沫が高く舞い、カロンはずぶ濡れとなった。
そして一瞬だけ、オーガから視線を切った。飛沫に混じる丸石を警戒したのだ。
狙ってそうしたわけではないのだろうが、結果としてオーガに好機が生じた。オーガが勢い込んで体当たりを見舞おうとする。
ただカロンの反応も速い。目が鋭くなった。すぐに体勢を直し、強く踏み込んだ。
オーガと交錯する。
カロンはツヴァイヘンダーを斬り上げていた。
その刃先は、オーガの膝を薄く斬っただけだった。細線が刻まれ、遠慮がちに獣の血が垂れる。手応えなどないに等しい。
それでもカロンは満足した。「よし!」と、強い声を出す。
今の動きで自分の体の状態と、頭の中の認識が合致したのだ。カロンの中でこのオーガを倒す為の障害がすべて取り除かれた。
オーガがまた襲いかかってくる。性懲りもなく――、そう思えるほどカロンの心に余裕が生まれた。
カロンは小さく苦笑した。この獣はどこまでも単純だ。興奮している所為もあるが、力任せで攻めに変化がない。もしオーガに、小鬼並みの狡猾さがあれば、どれほどの脅威となったことか。
カロンはもう、オーガをあえてギリギリまで引き付けられた。片目であっても距離感を誤る心配がなかった。
体は自らが踏み込んでも、背後を取れるほどには動けないと、そう分かっている。ならば誘って、呼び込んでしまえば良い。
迫る巨躯の圧力は相当なものだが、もはや脅威は感じない。傍目には際どくとも、カロンは落ち着いていた。
オーガの体当たりを寸前で躱す。
身を翻し、オーガが通り過ぎる。カロンは巨躯の背後へと回った。すれ違いざまのオーガの膝裏を、カロンは反転した勢いを利用して薙いだ。
今度は手応え充分。タイミングも完ぺきだった。膝靱帯を確実に切断した。
大きな体が、この一振りでバランスを崩した。絶叫し、弓なりに背を逸らして、両膝が地面についた。
オーガの動きが止まった。
そして、一瞬の間の後。オーガの分厚い胸板が、いきなり破れた。
「ガッ!?」
オーガが短く声を上げた。左胸から、血に塗られたツヴァイヘンダーの切っ先が顔を覗かせる。
巨躯が地に膝をついたことで、届く距離となったオーガの心臓を、カロンは背中から正確に貫いた。
膝を薙ぎ、心臓を突く。実に単純な攻撃。
ゴブリンの邪魔がなく一対一であれば、カロンがこのオーガを倒すのに要するのは、たったそれだけだったのだ。
随分と手こずった――。
だからカロンは、それが偽らざる思いだった。
実力差はあっても、常にその差の通りになるとは限らない。現にカロンは瞬時の判断を誤り、怪我を負った。
どこに立場を逆転させる要因が潜んでいるのか。命を掛けたやりとりとは、そういったものだ。
オーガの命の漲りが急速に衰えていく。割座のような姿勢のまま、やがて肩に張った力が抜けた。腕がだらりと垂れる。
カロンは静かにツヴァイヘンダーを引き抜いた。
オーガの首が折れ、がっくりと項垂れた。心臓を破られれば生物は死ぬ。それは人でも獣でも変わりない。
ただオーガは体が大きい分、死の訪れに時間がかかるようだった。獣はまだ、しつこく息を荒く乱していた。
「楽に、してやるよ」
カロンはオーガの首筋を切った。切り落とす必要はない、浅く頸動脈を断つ。
寸前まで動き続け、心臓からのポンプに激しく血を巡らせていたのだ。その大量の血が、噴水の様な勢いで飛び出した。
獣に対して同情の念はない。ただカロンはその命を断つ者として、確実な最期を届けるのが、せめてもの義務だと思っていた。
やがて、オーガの呼吸が止まった。オーガはカロンの心に、ほんの僅かな苦さを遺し、逝った。




