(四)ノ26
一時は四十にまで迫ったゴブリンの群れも、今はもう十匹に満たない。沢に累々と広がるのは、小鬼の屍ばかり。
そして残ったゴブリン達は、ニクスという無慈悲な殺戮者に怯え、もはやオーガには見切りをつけたようだった。
貧相な体をした小鬼は、どれも一様に腰が引けていた。そんなゴブリンたちがどうするのか。
当然、逃げの一手であろう。小鬼たちはカロンの隙を伺っていた。
もちろんカロンも、ゴブリンの考えが手に取るように分かっている。一匹たりとも逃すつもりはない。
逃せばその先で、オルフェやクロトに危害を加える可能性がある限り、絶対にそうさせてはならなかった。
ただ目の前のオーガが、面倒なことになってしまった。エルフとニクスによって仲間が倒されたのを見て、興奮状態に陥ったのだ。
激しい声と共に、太く長い腕を振り回し、滅茶苦茶な攻撃を仕掛けてくる。
こうなるともはや、オーガにとってはカロンもゴブリンも関係ない。動くもの全てが攻撃対象だ。
巨体が奇声を上げながら暴れ、場が乱れた。そしてこれがきっかけとなった。ゴブリンが慌てふためきながら四散する。
カロンがこれまで必死に堪えていた防衛線が、一気に崩壊してしまった。
「クソッ!」
カロンはとにかく、一番近くのゴブリンを追いかけ背中から切り伏せた。すると今度は、自分の背後に気配を感じた。
この圧力は振り返るまでもない。オーガだ。
咄嗟に跳び、前転した。直後に巨大な拳が降ってきた。カロンのすぐ真横で、沢が激しく叩きつけられる。
さすがに迫力十分だ。掠めてもないのに、その衝撃だけで体のどこかを痛めたかと錯覚するほどだった。
まともに受ければ一溜りもない。それでもカロンは怯まずに、素早く起き上がると身を翻し、オーガに向かって踏み込んだ。
「邪魔だっ!」
水飛沫を浴びながらも、構わずに斬りかかる。
ただ、この男にしては珍しく強引すぎた。ゴブリンを早く追わなくてはと、らしくもなく焦ったのだ。
沢の水と一緒になって飛び散った丸石が、カロンの左目に命中した。ほんの一瞬、体が硬直した。
それでもカロンはオーガの膝を薙いだ。分厚い表皮が裂ける。
だが、浅かった。
興奮状態にある巨人が、この程度の傷に頓着するはずがない。
頭が冷えてカロンは気付いた。
しまった! という思いが込み上げる。
カロンはオーガの懐の内にいた。巨大な拳が迫る。
そして無理に攻めたカロンに、これを躱すだけの余裕はなかった。
受ける他なく、すぐに防御の態勢をとる。大剣を盾とした。
ドンッ! と大岩をぶつけられたかのような重さ。これは決して人が抗える代物ではなかった。
踏ん張ってはいけない。
カロンは瞬時にそう判断して、素直に殴り飛ばされた。
飛ぶことで威力を随分と削いだはずが、それでも全身に走った衝撃は凄まじかった。
宙に高く舞い、そして受け身の姿勢もまともに取れないままに、沢に敷き詰めた丸石の上に、体が強かに叩きつけられた。
「うっ」と一瞬、息が詰まり、むせ返った。
それでも倒れてはいられない。本能的に起き上がろうと四つん這いになる。そこで動きが止まった。
体が負った痛手は小さくなかった。四肢が震え、力が入らない。激しく咳き込み、口から胃液交じりの涎が垂れた。
吐血は、なかった。
内臓の損傷は避けられたか。カロンは自分が吐き出したもので濁らない沢の水を見つめながら、そう判断した。
手の甲で乱暴に口を拭う。なんとか力を込めて、大剣を杖にしながら、よろめき立ち上がった。しかしもう、ゴブリンは追えそうにない。
ゴブリン達はあちこちに散ってしまい、そのうちの何匹かがオルフェのいるほうへと向かっていた。
「なんて、ことだ……」
このままでは先生が――。
カロンは歯を食いしばりながらゴブリンの背を見つめ、「クソッ、クソッ!」と動かない自分の体に苛立ち、罵った。
その時、カロンの視界に新たな姿が加わった。長いブロンドの髪が流れる。
そうだった。クロトの危機に、エルフが反応しない訳がなかった。
動き自体に当初ほどのキレはない。それでもゴブリンよりかは遙かに俊敏だ。
エルフは一気にゴブリンを追い抜くと、すぐに身を反転させて迎撃の体制を整える。
ゴブリンの足は止まらない。活路を見出そうと、小鬼たちも死に物狂いなのだ。
エルフが細剣を振った。二匹がたちまち切り伏せられ、沢の中に勢いよく転がった。
エルフは退かなかった。いや、動けなかったのだ。
汚らわしいはずの獣の返り血が、白い肌の美しい顔に散る。ブロンドに艶めく髪が赤黒く斑に塗られた。
エルフは疲弊していた。肩を上下させながら、膝が折れる。
無理もなかった。彼女一人で、ここまでどれだけのゴブリンを切ってきたか。
エルフは眉根に皺を寄せ、表情を険しくした。まだ終わっていない。彼女は懸命に力を振り絞り、別の方へ逃げていくゴブリンを追いかける。そして背中から切りつけた。
だが、その動きがもう格段に鈍くなっていた。余力がほとんど残っていないのだ。
それでも彼女は止まらなかった。突き動かすのは、クロトを守るという確固たる意志だろう。
それはカロンのオルフェに対する思いと、なんら変わるものでない。だからカロンは、彼女を信じた。
残るゴブリンは彼女に任せれば良い。エルフがいるのなら、オルフェとクロトは大丈夫と、今は素直にそう思えた。
ならばこれで、やることはただ一つだ。
「おい! こっちだ」
カロンは声を張った。
興奮するオーガは元々が知性が低く単純なのに加え、逃げ惑うゴブリンに気を取られて自身が殴り飛ばした相手を見失っていた。
まだ思い通りに体が動かないカロンは、そんなオーガを呼び寄せた。
オーガがカロンの声に反応した。カロンを見つけ、すぐに大きな体を揺らしながら迫ってくる。
「さて――」
カロンは呟く。オーガに定めた視界は、今は半分に狭められていた。丸石で瞼を深く切り、流れる血が左目を覆っていた。
体が痛みに盛んな悲鳴を上げる。カロンはそれを無視した。
腕の力が抜けそうになるのを堪え、大剣を片手に持ち直して肩に担いだ。震える足を開いて腰を落とし、迫るオーガを迎え撃つ体勢を整える。
「決着をつけようか」
もちろん、負けはない。この程度のダメージ、オーガ如きにはなんら問題でない。カロンは心に強く言い聞かせた。
無精ひげの頬をゆがませる。口の端を吊り上げて、無理に虚勢を張った。




