(四)ノ25
オーガの絶叫が響く。その声は凄まじく、地が揺らぐかのようだった。
いったい何が起こったのか――。カロンは唖然とする思いで、沢に落ちたオーガの太腕に目をやる。
これはエルフが細剣で切り落とした。にわかには信じ難くとも、この目で見たのだ。間違いようがなかった。
しかし彼女の斬撃は、ニクスの戦斧や、大剣を振るうカロンのように、己の腕力と武器の重さに頼ったものではない。鋭く的確であっても、軽い。
それだけに、鋼のようなオーガの肉体には通じないはずである。現にそれまでに幾度か切りつけていたが、何れも表皮を薄く切るのが精々だった。
それがいきなり、エルフは自身の胴体よりも太いオーガの腕を、一刀で両断した。
切り落とされたオーガの腕は、沢の水が血を流し続け、その切り口がはっきりと見て取れた。
歪みやガタツキがなく、見事な切断面だった。まるで滑らかな牛酪でも切ったかのように。
ただそれは、あまりにも奇麗すぎた。
細剣と彼女の腕力ではありえないのだ。
つまり、オーガの腕を直接切ったのは、何か別の力の作用によるものだ。
カロンは先ほどの光景を思い返した。
エルフは、オーガの拳が迫るにも係わらず、動かなかった。目を閉じて、口先で呟いていた。何と言っていたのかは聞き取れない。
ただそれが、その後に起こった変化と無関係でないはずだ。
変化は彼女自身ではない。彼女が持つ細剣。
束の間のことだが、刃の周囲が違って見えた。
何かが付与したと言うべきか。蜃気楼でも見るかのように屈折して、密度の濃い空気を纏っていた。そのように見て取れた。
不思議な現象だった。エルフは何か、得体の知れぬ力を持っていた。
ありえないと、まずはそう思った。
しかしカロンは、すぐにその考えを捨てた。これは現実だと頭が理解したのだ。
何故ならば、その力を見るのがカロンは初めてでなかったからだ。
同じではない。だが、似ていた。
背中の傷が疼くように錯覚する。そして、一つの言葉が頭に浮かんだ。
「これは、マ法……か?」
無意識に口に出して呟いた。
マ法という言葉は、今となっては、吟遊詩人の詩曲の調べに乗って耳にする程度だろうか。
その一節には、このようにある。
ゲイマンたちはマナを用いた
マナは様々に変化した
それは様々に役立った
時に地を割り、水を凍てつかせた
あるいは火を起こし、風で切り裂きもしよう――
ゲイマンとは、この辺りの地域に最初に定住した民族の名である。
古い叙事詩によって、彼らはマナを使い、不思議な現象を起こしたと伝わる。
マナとは何か――。『この世のあらゆる存在に宿るもの』と随分と曖昧だが、ともかくそのマナを用いることを、ゲイマンは『マ法』と呼んだ。
ゲイマンたちは自然を愛し、森と共存した。彼らは繁栄による勢力の拡大を好まず、慎ましかった。
それなのに、ある時代にゲイマン民族は滅ぼされた。
自分たちにない力を持つ者を恐れ、人々は彼らを忌み嫌ったのだ。
マ法は悪魔の力、『魔法』と意味を変えて呼ばれるようになった。そしてその力を使うゲイマンを、人になりすました悪魔だと烙印を押した。
彼らへの迫害は熾烈を極めた。
ゲイマンは悪魔であって人ではないのだから、と――
マ法は彼らと共に滅び、今は失われたはずのもの。だが、かつては人が使えた力なのだ。
人より遙かに長寿で、森の賢者とも称されるエルフが、マナを用いても不思議ではなかった。
だからエルフが使ったのも、この『マ法』ではないだろうか。カロンはそう考えた。
ともかく、エルフのその力によってオーガは腕を失い。オーガは叫び声をあげた。
そしてその声に、さすがのニクスも戦斧の動きを止めた。彼の足元には、原形を失ったゴブリンだった獣の、無残な死体が転がっていた。
ニクスは、苦痛にうずくまるオーガの姿に、本来の標的を思い出した。
エルフは消耗が激しいのか、肩を大きく上下させ、その場で動けないでいる。ニクスは彼女を横切り、ゆっくりとオーガに近付く。
オーガは低い唸り声を断続的にあげ、丸めた背を小刻みに震わせていた。
バルディッシュの間合いに入る。とどめを刺すべく、ニクスが戦斧を振り上げた。
その時だった。
オーガの唸り声が大きくなった。痛みを訴えるものではない。オーガはまだ戦意を失っていなかった。
荒い鼻息。オーガが叫ぶ。そして、いきなり動いた。巨体を丸め、一つの塊となって、ニクスに突進する。
ただニクスも、闘争心の強いオーガの性質を知っている。完全な油断まではしていなかった。
ニクスは反射的に重い戦斧を手放し、横へと跳んだ。
オーガの体当たりを躱して沢の中を転がる。そしてすぐに、中腰に起き上がった。
沢の水で、獣の返り血を中途半端に洗い流した顔の、大きな目がギョロリと動く。
ニクスはオーガの二撃目の仕掛けを、目だけで牽制した。
「往生際が悪いな」
不敵に笑う。ゆらりと立ち上がった。
「いいぜ、徹底的にやってやる。だからもう、楽に死ねるなんて思うなよ」
ニクスは肩を回しながら、オーガに歩み寄る。
オーガの今の突進は、ただの足掻きにしかならなかった。両腕を失い、巨躯をぶつける以外に攻め手がない。
至近距離で千載一遇の好機であったにも係わらず、それが躱された。オーガの単純な脳でも、どうやら己が待ち受ける運命を理解したようだ。
オーガが初めて、恐怖に怯えた。自分よりもずっと小さき者が、武器も持たずにただ近付くだけなのに、この巨人は動揺し、後退りした。
「じゃあ、いくぜ?」
ニクスが低い声で告げた。右拳を大きく振り上げ、一気に間合いを詰める。そしてオーガの膝に、目一杯の力で叩きつけた。
強い衝撃に、オーガが悲鳴をあげる。
ニクスの動きが止まらない。続けざまに今度は左拳で殴打する。変異種ゴブリンをそうしたように、オーガも素手で殴殺するつもりなのか。ニクスが右の拳をまた振りかざした。
ニクスの拳は確かに強烈だが、強靭さにおいてオーガはホブゴブリンとは比ぶべくもない。
ただ逆に言えば、つまりその分だけ、余計にオーガはこれから苦しむことになる。
ニクスは途切れなく殴り続ける。オーガは身をよじり、ニクスを嫌った。堪えきれずに足を上げ、そのままニクスを踏みつけようとする。
それでもニクスは構わずに、軸足となる膝を殴りつけた。
片足でバランスを崩し、オーガが仰向けに倒れた。沢の水が派手に弾ける。
ニクスが勝ち誇り、短く笑った。嘲りながら倒れたオーガの体の上に飛び乗った。
これでオーガの命運は完全に尽きた。
「ハッハッハーッ!」
残酷なニクスの高笑いが響く。
カロンは見届ける気になれず、視線を切った。




