(四)ノ23
肩から胴体へと止血帯を回し重ね、最後に強く締め上げる。ニクスは加減したようだが、それでもオルフェは「うっ」と呻いた。
「あ、きつすぎたっすか? 先生」
「いや、大丈夫だ」
オルフェは、詰まった息を体から抜きながら応えた。
ニクスのおかげで、背中の怪我の応急手当ては済んだ。ニクスは自身がこれまでに幾度となく、オルフェからの手当てを受けてきたので勝手が分かるのだろう。手際が良かった。
クロトが汲んできた沢の水で背中の傷口を洗い、消毒液を掛ける。
止血薬を――、これはオトキリクサにホシユキノシタ等を加えて調合した軟膏だが、それをたっぷりと塗り付けた布を傷口にあてがう。その上から止血帯を体に巻き付けた。
その間、クロトはどうしていたかというと、手伝いたかったらしく、オルフェやニクスの周りをうろちょろとしていた。
どうやらクロトも幼いなりに、オルフェの怪我に責任を感じているようだった。
「先生、なんか、もう血が染み出てきてますけど、これ――」
「気にしなくていい。そもそも止血帯が沢の水に浸かってしまったから、それで滲みやすくなっているだけだ。大丈夫だよ、出血そのものは、これでかなり抑えられるはずだから」
「なら、良いのだけど……」
頷きはしたものの、ニクスは声に不安の色を隠さなかった。表情を曇らせたままに、オルフェを仰向けにそっと寝かせなおす。
やはりクロトも手伝おうと、オルフェの体に手を添えてきた。
「ありがとう、ニクス。それにクロトも。偉いね」
オルフェは姿勢を落ち着かせると、一つ息をついて、両脇から顔を覗き込んでくる二人それぞれに感謝した。
「先生」と、ニクスがくぐもった声になる。
「ホントにもう、大丈夫なんっすよね? オレ、先生が死んじゃうって……。イヤっすよ、あんな思いするのは」
目の端に涙を滲ませて訴えてくる若者に、オルフェは「心配いらないよ」と返した。
「ニクスが手当てしてくれたんだ。だからもう、大丈夫」
オルフェは優しい笑顔を作って見せる。それでもニクスは、激しく首を横に振った。
「先生の心配いらないは、アテにならない――」
「酷いな」
オルフェは芝居がかった口調で応え、そして小さく笑った。手元に転がっていた、使い切り空となった止血薬の容器を拾い上げて、指で弄ぶ。
「でも本当に心配いらないんだ。この止血薬はとてもよく効く。誰が作ったと思っている?」
オルフェがわざと不遜な物言いをすると、ニクスは腕で目をこすって、涙を拭った。
「そうだったっすね」と、あどけなく笑う。
オルフェは頷いて応えた。その時だった。
「ニクス!」
沢の向こう岸側から叫ぶ声が響いた。カロンの声だとすぐに分かった。
目を向けると、ゴブリンが一匹こちらへと向かってきていた。カロンとエルフの隙をついて、逃れ出たのだ。
二人とも目の前の獣を押さえ込むのに手一杯で、安易に追いかけては、ただでさえ綻びかけている防衛ラインが、一気に崩れてしまう。
「まだ、先生の右腕が――」
「無用だ」
オルフェは短く応えた。実際、骨折は大怪我に違いないが、直ちに命に係わるものではない。
それよりも、今はニクスの加勢が必要だった。それはニクスも理解していた。
「分かりました」
ニクスは表情を引き締めて言った。そしてまた、少しだけ緩めてオルフェを見る。
「先生、じゃあオレも行ってくるっすね」
オルフェが「頼む」と頷くと、ニクスは何故か「うーん」と声を上げた。場にそぐわない、緊張感のないものだった。
「なんか、ハラへったっすね。先生は――、それどころじゃあないか。ね、クロトちゃんもお腹空いたよね?」
ニクスが尋ねると、クロトは不思議そうな表情で首を傾げる。
「あれ? オレだけっすか?」
「そういえば」オルフェは思い出して言った。
「イーオおばさんが美味しいもの作って、村の人たちに振る舞うと言っていたな」
「え? 何っすかそれ。聞いてないっすよ」
「ニクスが準備の為に、司祭館に戻った時の話だからね」
「ああ、そんな話になってたんすね。いいなあ、イーオおばさんのは本当に旨いっすもん」
ニクスは「じゃあ」と言って、立ち上がった。
「さっさと終わらせて、早く村に帰りましょう。まだ何か残ってるかもしれないっす」
ニクスの雰囲気が変わる。
逃れてきたゴブリンは岸へと上がり、転がったままのニクスの戦斧に手を伸ばしていた。ただ非力な小鬼に重すぎた。持ち上げようとするだけで悪戦苦闘をしている。
「クロトちゃん」
ニクスはゴブリンへと目をやりながら言った。
「先生を頼むね。しっかりと守っていて」
ゆっくりと、ニクスはゴブリンへと歩み寄っていく。オルフェは一歩ごとに変貌していくニクスの姿を見つめた。
日頃はあんなにも素直で、あどけなさを残す若者が変わってしまう。アラーケニュの時は辛うじて聞き入れてくれたオルフェの声も、今はもう、きっと届かない。
目の前で親を獣に殺された少年が、心に宿してしまった狂気。とんでもない加虐性。なんとか堪えていたそれが、遂に解き放たれる。
ニクスは、バルディッシュを持ち上げようと躍起なゴブリンの背後へと回っていた。
「おい」小鬼の尖り耳に低い声で囁く。そして、ゴブリンの後頭部を鷲掴みにした。
「汚い手で、そいつに触んなよ」
そのまま容赦なく、石だらけの地面に叩きつける。大きな鉤鼻が折れ、顔面が潰れた。鮮血が飛び散り、ニクスの顔が返り血で汚れた。
ニクスは息絶えたゴブリンから手を離し、代りにバルデッシュの柄を拾い上げた。片手で軽々と肩に担ぐ。
獣の血を赤黒く塗った顔面。大きな目がギョロリと動く。沢の向こう岸側、巨躯を誇るオーガへと向けられる。
次の標的を見定め、ニクスはゆらりと、沢の中へと入っていった。




