(四)ノ22
「ニクス、すまなかった。私が迂闊だった所為で、キミに怪我を」
オルフェは、背後で上体を支えてくれているニクスに謝罪した。
「さっそく約束破ったっすね、先生」ニクスは、小さく笑ったようだった。
「もう絶対に、無茶しないって言ったのに」
「ああ、そうだな――」
その通りだった。アラーケニュをニクスが倒した際に、確かにそう誓ったばかりだった。だからオルフェには、返す言葉もなかった。
「ただ」と、ニクスは声に含んでいた笑いを打ち消した。
「先生はクロトちゃんをしっかり守った。だから怒れないっすよ」
「守った? 私が?」
意外な言葉に、オルフェは思わず聞き返した。
「そうっすよ。オレや、先に森に入っていたカロンさんも間に合わなかった。先生が誰よりも早くクロトちゃんを見つけて、そして守ったんすよ。だから怒れないっす」
オルフェは戸惑った。そのように言われるとは思わなかった。オルフェは沢に足を踏み入れるクロトを見つめた。
幼く小さな娘は、腰を屈め、革の袋口を沢の水の中へと沈めていた。オルフェが駆けつけ、抱きとめなければ、クロトは今ああしていない。ゴブリンに捕らわれたあの子は、獲物が誘い出されるまでの命だった。
ああ、とオルフェは声に出した。「そうか」と呟いた。急に実感が込み上げてきたのだ。
「守れたのか、私は……。クロトを」
獣と戦える力を持たない。弱いばかりの自分が、それでも娘を守ることが出来た。
先ほどまでは、己の弱さを情けなく卑下していたが、しかしニクスは認めてくれた。
クロトをしっかり守ったと。
その言葉一つで、なにか報われたような、そんな思いがした。
「それに」と、今度はニクスの声が沈んでいた。
「オレのほうが、先生を絶対に守るなんて見栄を切っておきながら、このザマっす」
「それは、私が――」
「いえ、オレの落ち度っす。先生にこんな大怪我させて……。ホントに申し訳ないです。オレ、護衛役失格っすね」
「それは違う。ニクス。キミは身を呈して私を庇ってくれたじゃないか」
「そんなの――。先生、オレ、思ったんっすよ。カロンさんだったらって。そもそもが、あんな状況にはならなかった。先生を先に沢に出させるようなことは、あの人なら絶対にしないだろうから」
淡々とした口調ではあった。
ただニクスはオルフェが思う以上に、オルフェの怪我に責任を感じ、そしてカロンに対するわだかまりのようなものを、声に滲ませた。
オルフェは返事に窮した。
護衛役をニクスからカロンへと取り計らったのはパーン司祭で、オルフェもそれを望んだ。
そんな自分がニクスにどう返せば良いのか、何を言っても白々しくなりそうで、オルフェはこの場における適切な言葉が思い浮かばなかった。
オルフェが、ニクスへの返答を思いあぐねていると、いきなり薄い影が視界に入り込んできた。
驚いて顔を上げる。エルフだった。獣と戦っているはずのエルフが、何故か目の前に立っていた。
胸にはクロトを抱きかかえている。息が乱れていた。
オルフェは訳も分からぬままに、言葉なく彼女を見上げた。エルフからは見下された。
無表情なようで、その実、目には明らかな怒気が宿っている。
エルフの胸に抱かれたクロトがむずかった。それを見て分かった。エルフは沢へ入ってきたクロトに驚き、戦列を離れて急ぎ連れ戻しにきたのだ。クロトが獣との戦いに巻き込まれないようにと。
そしてオルフェに対して怒っている。クロトを傍から離れさせないで、と彼女はそう言ったのに。
なのでエルフの目つきは険しく、視線が攻撃的にオルフェへと絡んだ。
ただ、それは僅かな間だった。彼女は何かに気付いたらしく、切れ長の目を僅かに見開くと、そこから急に態度が変わった。
そわそわと、何やら落ち着かない。翆玉の瞳が右に左にと泳いだ。
どうしたのだろうか? オルフェには皆目、見当がつかない。
エルフが何かに動揺していると、抱きかかえられていたクロトが、宙に浮いた足をバタつかせ始めた。下ろせと言っているのだ。
エルフは素直にそうした。オルフェから目を逸らし、腰を屈めてクロトをそっと解放した。クロトはすぐさまに、オルフェの傍へと寄った。
エルフの動きがどうにもぎこちない。意識的にオルフェを見ないように避けているようだ。彼女は姿勢を戻すと、今度はニクスへと目を向けた。その目は必要以上に威圧的だった。
「な、なんっすか?」
ニクスは気圧され、声に戸惑いを乗せた。エルフは無言のまま、沢のほうへと顎をしゃくる。加勢しろということのようだ。
「先生……」
ニクスはオルフェに伺いを立てた。戦列に加わるか、この場で護衛に徹するべきか、判断に迷ったようだった。
沢の向こう岸側では、先ほどからオーガはもちろん、ゴブリンの数もほとんど減っていないようだった。今はカロンが孤軍奮闘している。エルフと二人でも手が足りずに、守勢一辺倒のままであった。
なのでニクスが加われば、攻めに転じられ、状況は一変するかもしれない。
ただオルフェには、複雑な思いがあった。正直に言ってしまえば、ニクスを行かせたくなかった。
あんなにも獣の群れる場に入らせれば、この若者がどうなるか、分かりきっていた。
獣への強い憎しみを、押さえ込めるはずがない。怒りのままに戦斧を振るう彼の姿など見たくはなかった。
それでもオルフェは、無言で頷いた。そうするしかなかった。
今はとにかくこの状況を打破しなければならない。その為にはニクスの力がどうしても必要だった。
「分かったっす」ニクスは静かに、落ち着いた口調で応えて、エルフへと顔を向けた。
「少しだけ、待ってほしいっす。先生の手当てが終わったら、すぐにそっち行くっすから。それまでは頼みます」
ニクスが言うと、エルフは目を短く伏せるだけの頷きを返した。
そうしてからエルフは、オルフェのすぐ傍にまで歩み寄った。ただやはり、視線を合わせようとしない。
顔はそっぽを向いたまま、エルフは身を包んでいたローブを外した。腕を伸ばし、そしてオルフェの体の上にローブを落とした。
オルフェは虚を突かれた思いで、彼女を見上げた。それでもまだエルフは、オルフェを見ようとしない。
オルフェは要領を得ぬままに、自身へと視線を落とした。それでようやく気が付いた。
思わず「ああ」と、声にした。エルフの挙動がおかしくなった理由が分かったのだ。
オルフェは今、上半身が裸だった。怪我の手当ての為に、ニクスに服を破かれたからだ。
つまりエルフは、オルフェの裸を見て照れていたのだ。
オルフェはまた顔を上げ、改めてエルフの様子を見つめた。ローブを外した彼女は、麻服の上から肩や腰などの部分的な革鎧を纏い、細い脚にロングブーツを履いていた。
エルフは顔を背けたまま、横眼を向けてきた。オルフェの視線とぶつかると、すぐにまた逸らした。
気の所為か、斜め後ろから覗く頬に、赤みが差しているように見えた。
これは少し、いやかなり意外だった。
エルフという種族は人よりも遙かに長寿と聞く。彼女がどれだけの長い年月を生きてきたのか、それは人では到底、及びがつかないものであろう。
長く経験を積み重ねてきたはずなのに、これではまるでうら若い乙女のような初心な反応ではないか。
遠慮のないオルフェの視線に、エルフは耐えきれなくなったようだった。本心を見抜かれたと感付いたのだろう。
いきなりである。逃げるように場を離れた。
慌てて戦地へ入った彼女は早速、一匹のゴブリンを切り伏せた。ただそれは、何かこれまでとは違って、随分と感情が入り込んでいた。
超然として見えた彼女だったが、その本質はどうやら、随分と違うらしい。そうと気付いたオルフェは、エルフへと目をやりながら、なにか彼女に親しみのようなものを感じた。




