(一)ノ4
カロンが捜索へと出かけ、オルフェは女の子と二人だけになった。
すると途端に、周囲の静けさに寂しさを覚えた。胸中でくすぶっていた不安が急速に膨らんでいく。
絶妙なタイミングで風が立てた小さな物音。そんな森の些細な悪戯にも、オルフェは素直にびくりとして身体をすくませた。
誰かが傍にいない森は初めてだった。森に入る際には、必ず腕の立つ護衛役を同行させる。それが村の決まりである。
オルフェの場合、カロンが村に居つくようになってからは、殆ど専属のように護衛役を務めてもらっているが、その彼の庇護下になければ、森はこんなにも寄る辺ない思いをさせるのか。
カロンの存在がなんと頼もしいものであったかと、オルフェは改めてその有り難さを実感した。
兎にも角にもまずは獣除けである。オルフェは先ほどの乾燥ハーブの薬包紙を開いて、岩に乗せた。
その上から炭化させた百草をかぶせて火口とし、瑪瑙石を打ち金に叩きつけて火花を散らす。
手慣れているので、引火させるのは容易い。
火はゆっくりとハーブへと広がり、音もなく小さく揺らぐ。白く薄い煙が立ち上がり、ハーブの匂いが少しばかりの刺激性を伴って、周囲へと漂い始めた。
オルフェは鼻をひくつかせ、「よし」と小さく頷いた。
次にオルフェは纏っていたクロークを外して折りたたみ、女の子の後頭部を乗せて枕にした。
止血帯に使う清潔な布を革袋の水で湿らし、女の子の額や頬、首筋を拭ってやる。先ほどより汗の量が増えていた。
熱は依然高いままだが、今は呼吸は静かで、脈も落ち着いている。
ただ、意識喪失の状態に陥っていた。高熱の状態が長かったのか、体力を相当消耗させていたようだった。
女の子の赤い頬を見ていると、オルフェの心にはもどかしさが募った。この場所に留まる限り、施せる治療はなにもない。本音を言えば親探しなどせずに、一刻も早く村へと連れて帰りたかった。
だが、それはあまりに軽率で、独りよがりの偽善になりかねないものだった。
もし親が無事であったのならば、この場所に戻るはずである。それではオルフェは人さらいと変わりない。女の子との間を引き裂くような真似はしたくなかった。
ただ一方では、もう親が戻ることはないだろうとも考えていた。
それは、この森には獣がいるからだ。
人を獲物として襲ってくる存在、獣。
獣の中で被害報告がもっとも多いのが、ゴブリンだ。数が多く、日の高いうちから夕方にかけて活動をするので、森での遭遇率は高かった。ムーサイの村人は、小鬼と呼び忌み嫌う。
その容姿は一様に醜悪で、尖った耳と極端に大きな鉤鼻をしていた。体毛の薄い表皮は家畜の豚が近いだろうか。白くピンクがかっており、しわが深い。
森の中では洞窟内に群れで暮らし、コミュニティを形成する。火をおこし、道具を用いる程度の知性も持っていた。
小鬼と称されるだけあって、背丈は人の子供ほどしかなく、猫背で痩せており、腹が出ている個体が多い。力は弱く、一匹であれば大したことないが、それはゴブリンも分かっている。
単独での行動はほぼあり得ず、必ず群れで、連携のとれた狡猾な狩りを仕掛けてくるので、数の多い襲撃はかなり危険であった。
これまでに幾度か、十数匹の群れで襲われたことがあるが、カロンでも足手纏いを抱えては楽勝とはいかない。
それほどに厄介な獣である。腕に覚えのあるものでなければ、確実に餌食にされてしまうだろう。女の子の親も、その被害に遭ったのではないだろうか。
そう思うと、今のこの状況は自らが言い出したこととはいえ、非力なオルフェは心細くて仕方がなかった。
もし今、襲われれば、オルフェでは女の子を守り通せない。カロンの帰還が待ち遠しい。
それまでの頼みの綱は、この獣除けの乾燥ハーブ――
「ん?」とオルフェは、声に出した。
見るとハーブが、すでに燃え尽きていた。
混ざり気のある薄荷の匂いこそ鼻につくものの、その刺激性と言う面ではどうにも物足りない。
この程度で獣除けになるだろうか?
「うーむ」と、オルフェは一人ごちる。
森で役立つ機会もあろうかと作ってはみたものの、実際にその効果を試してみたことは実は一度もなかった。そして、その結果はオルフェの想定よりも、随分と頼りないものだった。
量が少なすぎたのか、燃焼時間の短さが大きな要因だと分析する。用いるハーブの種類にも、検討の余地がありそうだ。
オルフェは指で顎先をかきながら、白い灰となったハーブの残骸を見つめた。
嫌な予感がした。
それは人が辛うじて残している本能からの警告。つまりこの手のものは、大抵が的中することを意味している。
突然、ハタハタと空気を切る音が響いた。オルフェはハッとして、目の端で動くものを追った。
その正体は――、ただの野鳩であった。少し離れた所で、草陰から飛び立つのを認めた。
それでもオルフェは、身を強張らさせて緊張した。
なぜ、いきなり野鳩が飛び立ったのか。
辺りはまた静寂が訪れる。ピンと張りつめたような空気。
耳をすませ、全神経を尖らせて気配を伺う。
草が摺れる音がした。ガサリと控えめに、しかし不自然に。
間違いない、獣だ。
そう確信したオルフェは、真っ先に女の子を片腕で抱き寄せると、木の幹を背に立ち上がった。
腰の後ろへと右手を回し、短剣を抜いて逆手持ちに構える。目を左右に忙しく動かしながら、来るべき襲撃に備えた。
するとすぐに、岩場の影から一匹が姿を見せた。黒い毛並みをした双頭の犬。それはオロべルスと呼ばれる獣だった。