(四)ノ21
「ニクス、キミの怪我は?」
オルフェはニクスの怪我の具合を気にした。それはオルフェの迂闊さの所為で、負わせてしまったものだった。
「え? ああ」と、ニクスは何でもないように笑う。
「もう大したことは。頭はまだガンガンとするっすけど。でも、血はとっくに止まってます」
「見せてくれ」
オルフェが言うと、ニクスは素直に身を屈め、頭部の傷口を近付けて見せた。
仰向けの姿勢のまま、オルフェは頭を起こして覗く。確かに血は止まっていた。皮膚は破れていたが、傷そのものは浅い。
ホブゴブリンのこん棒は掠めただけのようだった。それでもニクスを一時的に追い詰めるのだから、あの獣の力はやはり侮れない。
「手を、ぎゅっと握って。力は入る?」
ニクスは姿勢を戻し、言われた通りに自分の両手を握ったり開いたりを繰り返した。
見ると、彼の両拳は青紫の痣ができており、擦れた皮膚からは微かな血が滲んでいた。
オルフェは、ふと気になって尋ねた。
「そう言えば、ニクス。変異種は?」
「あっち見ないほうが、良いっすよ」
ニクスは手を動かしながら、さらりと言う。
オルフェはそれで察した。
考えてみれば、ニクスがこの場にいるのは、ホブゴブリンを倒したからのはずで、彼の様子から、素手で殴殺したのだと分かった。
オルフェは見るなと言われた辺りが、つい気になった。ただ視線は、ニクスによって遮られていた。彼の背後の向こうには、見るも無残な獣の死体が転がっているに違いなかった。
「うん」と、ニクスは十指を何か別の生き物のように、うねうねと動かしながら頷いた。
「大丈夫っす。違和感は全然ないっすね」
もちろんニクスの自己申告だけで、頭部の衝撃を楽観視するつもりはない。ただオルフェは注意深くニクスの様子を観察していたのだが、目の動きや、呂律に問題はなかった。
頭痛はもうしばらく続くかもしれないが、それもそのうちに治まるはずである。
どうやら後遺症の心配はなさそうだ。オルフェはそう判断して、まずは安堵した。
「ニクス、私は動けない。腰カバンに消毒液が入っているから、それで――」
「いえ」と、ニクスはオルフェの言葉を遮り、首を横に振った。
「オレより、先生っすよ」
「何を言っている。早く頭の傷の手当てを」
「どっちが重傷だと思ってるんっすか。いいから先生、ちょっと体を起こしますよ。我慢してください」
ニクスが中腰を起こすと、クロトもつられるように立ち上がった。表情がやたらに引き締まっている。どうやら手伝うつもりのようだ。
「じゃあ、クロトちゃん。先生の左手、引っ張ってくれる?」
その必要はないのだろうが、ニクスも心得たものである。クロトにそう頼んだ。
クロトは頷き、オルフェの左手を取った。ニクスは正面から、オルフェの両脇に腕を差し込む。
「クロトちゃん、いくよ? せーの」
タイミングを合わせるフリをして、オルフェの上体を起こした。すぐにニクスはオルフェの背中へと回る。そして服を破いた。
「これは、ヒドイ……」ニクスがオルフェの背後で絶句した。
「そんなにか?」
「ええ、先生。よく落ち着いていられるっすね。尊敬しますよ」
それは単に、体が痛みに順応したからに過ぎない。それよりも、傷はどうやら塞がっているわけではないようだ。骨の折れた右腕も力が入らず、動かせそうになかった。
つまりエルフのあの言葉の作用によって、オルフェは意識を取り戻し、体力こそ僅かに回復したものの、怪我はそのままの状態にあるようだ。
多少なりとも癒えているのでは? と淡く期待しただけに、落胆がまったくないかと言えば嘘になる。
傍らに立つクロトが、真剣な表情で見守っている。オルフェは強がって微笑んで見せた。
ただ、これではせっかくの体力をまた失ってしまう。応急処置の必要に迫られていた。
「ニクス、水袋の中身は?」
オルフェは、ニクスの頭の手当てを一旦は諦めて、そう訊いた。
「え? あ、はい。半分ほど残ってます」
「ならまずは、その水で傷口を洗ってくれるか?」
「はい、分かったっす」
ニクスは言われた通りに、すぐにオルフェの背中を濡らした。既に一度、沢の水に浸かった所為か、沁みるという感覚はなかった。
「先生、血がどんどんと――。全然、足りないっす」
「血は無視していい。傷口の小石や砂を流して綺麗にして」
「ああ、はい」
ニクスは応えたが、すぐに「えっと」と、迷った声を上げた。袋の水を空にしたようだ。
するとクロトが、一歩前へと踏み出した。両手をニクスへと伸ばす。
「ん? あ、もしかして沢の水を汲んできてくれるの?」
ニクスが意思を確認すると、クロトはコクコクと頷いた。
「そう」と、ニクスは声を柔らかくした。
「ありがとう、クロトちゃん。じゃあオレは先生を支えているから、お願いするね」
クロトは、今度は大きく頷いた。両手で水袋を受け取り、勢い込んで場を離れた。水袋を胸に抱きながら沢へと走っていく。
オルフェはクロトの後ろ姿に目をやりながら、骨の折れた右腕を動かそうと、もう一度試みた。
やはり、力がまるで入らなかった。背中の傷も血を流し続けている。
体力は多少回復したといっても、こうして支えがなければ、上体を起こしたままでいるのも困難だ。
なんて有様であろうか。オルフェは自分が情けなかった。
この森において、弱さはそれだけで罪だ。痛切に実感した。
自分が弱いばかりに、ニクスやカロンの足を引っ張り、彼らまでも窮地に巻き込んでしまった。
エルフの助けがなければ、今頃どうなっていたか――
沢の向こう岸側では、カロンとエルフが、オーガやゴブリンの群れと戦っている。オルフェはその姿を眺めた。
それはまさに羨望である。獣を前にしても、己の強さに自信を持ち、怯むことなく立ち向かえる彼らが、心から羨ましかった。
あの場に一緒に立てない。離れた場所から、ただ見ているだけ――
何時もそうだ。ずっとそうだった。
カロンやニクス、そしてあのエルフのように出来ない。戦える者とそうでない者。その間には明確な線引きがある。
オルフェは引かれた線の向こう側へ行きたかった。あの者たちのようにありたかった。
そしてなによりも、クロトを守ってやれるだけの力が欲しかった。




