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(四)ノ20

「――リヒ・リヒト・ゼーゲン」

 聞き馴染みのない、でもどこか記憶の中にある言葉。

 澄みきった美しい声は、アスクレラスに似ているようで、でもそれとは異なっていた。彼女ほどには、声に慈しみを含んでいないから――。だから明らかに違うと分かる。

 闇に溶け、限りなく無へとなりつつあった意識。それが急激に形を成してきた。

 何やら暖かい。ぽっと心に灯りがともるような、そんな感じ。

 オルフェは薄目を開けた。


「ああ、良かった」

 幼さの抜け切れないニクスの顔が、すぐ目の前にあった。ニクスは今にも泣き出してしまうのを堪えるようにして、「先生、分かりますか」と聞いてきた。オルフェは小さく頷いた。

「ニ、クス……」

「そうっすよ。オレですよ、先生。クロトちゃん、無事で良かったっすね」

 頭の中が霞がかっていて、状況が上手く掴めない。オルフェは狐につままれたような思いのまま、顔を横へと向けた。

 クロトがオルフェの傍らにちょこんと座り、泣いていた。声なく咽いでいた。

 眉間に深い皺を刻んで両目をぎゅっと閉じ、それでも隙間から零れる涙を、幼い丸い手で拭う。

 年相応の子供らしい泣き方に、何故だろうか? オルフェは不思議と安堵の気持ちでその姿を見つめた。


 そんなクロトを慰めようとしてか、隣で腰を落とすエルフが、おずおずと伸ばした手を、黒髪の後ろ頭にそっと添えた。

 ブロンドの髪の毛先が、さらりと揺れる。切れ長の目は、今は優しく幼子を見守っていた。微かに緩む薄紅色の唇。

 こうして間近で見ても、やはり彼女の美しさは非の打ちどころがない。


「先ほどの言葉は、あなたが?」

 オルフェが問いかけると、エルフは表情をやや硬くしながら目を向けてきた。

 周囲は薄暗いが、そんな中にあっても、彼女の翆玉エメラルドの瞳は透き通るかのようだった。

 エルフからの応えはなく、無言のまま遠慮のない視線を、ただ注いでくる。どうやらオルフェの容体を、見極めようとしているみたいだった。


 エルフは何に対してなのか、小さく頷いた。そうしてからまた、クロトへと視線を戻す。

 クロトは泣いている。エルフの目がまた柔らかくなった。両ひざを地に付けて跪座になると、気持ち姿勢を正した。

 そうしてからエルフは、クロトに対して頭を下げた。

 それはごく小さく、儀礼ととるにはあまりに微妙であったが、少なくともオルフェの目には、そのように映った。

 意外な行為ではあったが、ただ、まったく腑に落ちないかと言えば、そうでもなかった。

 このエルフは、クロトのことを以前から知っている――

 そんな気がしたからだ。

 根拠と呼べるほどのものはない。しかしエルフが先ほどから示す態度が、実はそうではないかと感じさせるのだ。


 エルフは頬に垂れた一房のブロンドの髪を指で掬い、尖り耳へかけた。

 その耳の形が唯一、しかし如実に人とは違う種族であることを語っていた。彼女はすくりと立ち上がった。沢へと顔を向ける。


 今、じゅうと対峙しているのはカロンだけだった。二体のオーガとゴブリンの群れを相手にして立ち回っている。

 ただそれは、倒すというよりオルフェ達の方へと行かせないように食い止める。そんな戦い方だった。


「その子を」エルフはオルフェ達に背を向けた。

「離さないでいて」

 そう告げると、返答を待つことなく駆けていった。澱みのない澄んだ声は、やはり先ほど無に近い意識の中で聞いたものと同じだった。

 エルフは軽やかな身のこなしで、あっという間に戦いの場へと加わった。

 彼女が何故、窮地を救ってくれたのか。そして何故また、こうして戦うのか。

 オルフェは彼女の背を見つめ、やはりそうか、と今の言葉で確信した。

 すべてはクロトの為。そうに違いなかった。


「先生、クロトちゃんのおかげなんっすよ」

 ニクスが言った。オルフェは「ん?」と小さく首を傾げる。

「あのエルフを」と、ニクスは戦いの中にあるエルフへと顔を向ける。

「クロトちゃんが呼びに行ったんです。泣きながら沢に入って。先生を助けてって。ああ、実際にそう言ったわけではないっすよ。でも、傍目に分かりました。そうしたらエルフが慌てて引き返して、クロトちゃんを抱きかかえて先生の元に」

 慌てて? あの澄ました感じのエルフが? 俄かには思い浮かべ難い光景だ。


 ただ、それよりも、である。

 オルフェはクロトへと目を向けた。クロトは泣き止んでいた。目は充血し、赤らむ浅い褐色の頬が濡れて湿っていた。

 オルフェは左手を伸ばし、指の腹で頬を拭ってやる。クロトは目を閉じて、素直に受け入れた。オルフェの手のひらに、甘えていた。


 あんなにも獣の群れる所へ、自ら近付くなんて。

「なんて危ない真似を」オルフェはクロトの行為を咎めた。

「巻き込まれて怪我でもしたらどうするんだ。ダメじゃないか」

「それを言います? 先生が」

 ニクスが呆れて、ため息をついた。

 確かにそうだった。無茶をした結果が、今のこの有様ザマなのだ。オルフェが言えた立場ではなかった。


「それで」とニクスは言った。

「先生、具合はどうなんっすか? もう大丈夫なんっすか?」

「どう、だろうな。良く分からない」

 オルフェは自身の体の状態を探りながら応え、「いや」と評価を改めた。

「やはり気の所為ではない、……のか? 体力が戻っているように感じる」

 考えてみれば随分と違う。意識を失う直前、言葉を口にするだけの体力すら失い、オルフェは確かに死を悟った。瞼を閉じながら、このままもう二度と開くことはないのだろうと――。


 それが今はこうして再び目を覚まし、普通に会話が出来ている。仰向けに横たえたままの体は、自力で起き上がれる程ではないにしても、それでも状態の改善は明白だった。

 何かの治療を施された形跡はない。

 ならば考えられるのは、あの言葉――。

 あれは間違いなく、エルフが発したものだった。

 聞き馴染みのない彼女のあの言葉が、何か不思議な力を作用させた――。そんなことが、ありえるのだろうか?

 常識的には考えにくい。しかし他に説明がつきそうなものが思い当たらない。


「なんだったのかな、あれは? まるで意味が分からないものだったが……」

 オルフェは独り言のように呟いた。

「祈りの、言葉」

 ニクスがぼそりと応える。オルフェが目を向けると、ニクスは「あ、いや」と取り繕うように説明をした。

「そんな気がしただけっす。司祭様がお祈りをする際に、ときどき妙な言葉を口にすることがあって」

「司祭様が?」

「はい。あっ、でも毎回じゃあないっすよ。聞いたことあるの本当に数えるくらいっす。でも、なんて言ってるのか聞き取れないっすけど、それが何だか妙に印象に残って……。さっきのが、それと似てたみたいだから」


 オルフェは、ふむと小さく頷いた。薄闇の空を見つめた。

 祈りの言葉――。

 聞き馴染みのないそれは、しかし初めてではなかった。記憶の底を探ってみる。

 パーン司祭とは声が違う。女性の優しい声。

 その声の主はやはり、アスクレラスのものだった。

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