(四)ノ18
ゴブリンが飛びかかる。
カロンは半身を向けながら一歩前へと踏込み、肩に抱えるオルフェを庇った。片腕でダガーナイフの刃を、小鬼の細い喉に深く差し込んだ。
しかし、すぐさま別の一匹が、オルフェの視界を覆った。
オルフェは最期に見る光景は、美しくないものだったなと、場違いに思いながら、それでも己の命を奪う獣のその姿を、脳裏に焼き付けようとした。
太ももに抱きつく愛娘の感触。骨が折れ動かないはずの右手で、そっとクロトの顔を覆った。これからのことを見せたくなかった。
ゴブリンがこん棒を高く掲げた――
ここまでだった。
オルフェに足掻くつもりはない。とにかく自分が真っ先にやられるのが肝心だと考えたからだ。
そうすればカロンも諦めがつく。オルフェという枷さえなければ、カロンはこの場を切り抜けられる。クロトを、エウリーケの元へときっと帰してくれる。そう信じた。
「先生っ!」
耳元でカロンが叫ぶ。悲痛な声。カロンにはきっと、守り通せなかった、自責の日々を過ごさせてしまうのだろう。
だがこれは、カロンを待てずに森に入ったオルフェが招いたものだ。だからどうか、責任を感じないでほしい。
そう伝えたかったが、それもどうやら、言えないままに終わりそうだ。オルフェはその瞬間を待った。
なのに、すぐに訪れるはずのそれが、なかなかやってこない。
何故だろうか? オルフェは心の中で首を傾げた。
ゴブリンは、未だにこん棒を掲げたままだった。表情も固まっていた。
それは束の間のこと。それでもオルフェには、時が止まったかのように感じた。
変化は一つだけ。矢が刺さっていた。
ゴブリンのこめかみに、いつの間にか矢が深く埋まっていた。
時が再び動き出す。
ゴブリンが奇声を上げた。矢の刺さったこめかみの傷孔から、血が零れ出た。
オルフェの視界を塞ぐ汚れた痩躯が、棒切れのように仰向けに倒れ、その背後に控えていた薄暗い空が広がる。
何が起こったのか。二の矢、三の矢と、空から降ってくる。その矢が突き刺すのは、いずれもゴブリンだった。
「な、なんだ、あれは?」
カロンが見上げて言った。オルフェも力なくその視線を追った。
岸辺の木の、高い位置の太枝に誰かが立っていた。容姿は伺えない。ローブに身を包み、フードを目深に被っていた。
ローブの人物は、足元の木枝の股に挟んで固定した筒から矢を抜き取ると、短弓で引き絞って狙いを定めた。
解き放つ。矢はひゅんと風を切り、オルフェ達に一番近いゴブリンの鎖骨に深く刺さった。見事な腕前だった。
思わぬ方向からの矢の攻撃に、ゴブリン達は酷く混乱した。それは無理からぬことだった。
そもそもが、オーガに追われて沢に逃れて出た群れなのだ。指揮系統はなく、頼みの綱の変異種は、ニクスと交戦中でそれどころでない。
後方からはオーガが迫り、逃れようとする先はカロンが立ち塞ぐ。カロンさえ倒せればと襲い掛かっても、今度は頭上から矢が降り注いだ。
四面楚歌に動揺が群れに広がり、押し寄せるばかりだったゴブリンの足が止まった。
フードの人物は矢を立て続けに放ち、悉くを命中させた。射尽くすと、すぐに樹上から飛び降りた。
五メートルほどの高さがあったのにも拘わらず、ふわりと体重を感じさせない軽やかさで、柔らかく膝を曲げて着地した。
そして地面を蹴った。跳ぶように駆ける。その勢いに目深に被っていたフードが脱げた。
ブロンドの長い髪が、踊りながらオルフェ達を横切って通り過ぎた。
白い肌。鋭利な線で描かれた整った目鼻立ち。尖った耳が、ほっそりと長い首へと繋がる。オルフェは初めて見るが、それは森人と呼ばれる種族の女性だった。
この森に住むという妖精の正体は、実は彼女ではないのか。そう思わせるほどに現実離れした美しさだった。
エルフは駆けながら、腰からぶら下げていた細剣のレイピアを鞘から抜いた。
沢に入り、矢を受けて動けないでいるゴブリンの喉笛を切り裂く。獣の返り血で己の身を穢すのを嫌ってか、素早く跳び退いた。
ゴブリンはうつ伏せに倒れ、血の混じった沢の水を派手に散らしたが、その時にはもう既に、エルフは別のゴブリンの背中に回っていた。顔色一つ変えずにレイピアを薙ぎ、そしてその獣の命を絶った。
ゴブリンが背後から石斧を振う。エルフは身を反転させてそれを躱す。
躱しながら、別の一匹の鎖骨に刺さっていた矢を掴んで引き抜いた。一連の動きの中で、矢を短弓で引き絞る。
すぐに解き放たれ、矢はオルフェ達へと迫ろうとしたゴブリンの背中へと命中した。
石斧でむなしく空を切ったゴブリンが体勢を崩すと、脇からレイピアで胴体を深く切断した。
そうやってエルフは、ゴブリンを次々と倒していった。舞うが如く華麗で、鮮やかな身のこなしだった。
十五匹ほどだろう。結局エルフは弓矢と細剣で、それだけの数のゴブリンを一人で倒した。
沢にはまだ多くのゴブリンが残っているが、それらはオーガに追い付かれ、二体の巨躯に囲い込まれていた。
つまりオルフェ達に差し迫っていた脅威は、忽ちは取り除かれたのだった。
たださすがに、エルフの息も上がっていた。足を止め、ローブに身を包んでいてもそうと分かる、ほっそりとした肩を何度も上下させた。
女性としてはかなり長身の体を僅かに折り、胸に手を当てながら、端正な顔を険しくした。むき出しの額に髪が一房、垂れた。
薄暗い空の下。腰ほどまでに伸ばされたブロンドの髪が揺らめく。それは絹糸のように艶やかに輝いていた。
身体的には人と殆ど違わぬ筈なのに、森人とは、こうも美しい種族であるのか。
オルフェは、彼女のその立ち姿に目を奪われた。




