(四)ノ17
オルフェは必死に駆けた。クロトを囲む二匹のゴブリンは、迫るオルフェに戸惑っているようだった。
ただ近付くにつれ、二匹が気を取り直した。互いに顔を見合わせて頷く。
それを見て、オルフェは瞬間的に理解した。クロトはまだ生かされている。クロトはオロベルスを狩る為の囮に利用されていたのだ。
つまりはこういうことだ。
見通しの利く沢で、人間の幼子を襲う貧弱な小鬼が二匹。これはオロベルスを誘い出す為の罠である。
漁夫の利を得んとオロベルスが沢に姿を見せれば、待ち構えたホブゴブリンが不意打ちする算段だったのだ。
いかにも狡猾なこの獣が考えそうなことだ。
ただ、鼻の利くオロベルスはその伏兵を見抜いて警戒した。そこをニクスが切り伏せたのだ。
そしてオロベルスに代わって、飛び出してきたのがオルフェだったというわけだ。
要するにオルフェは間抜けにも、ゴブリンの仕掛けた罠にまんまと嵌ったのだ。
だがこれは囮がクロトである限り、十回やってもその度にオルフェは同じ手にかかる。
二匹のゴブリンが石斧を高く掲げた。オルフェがおびき出されたことで囮の役目を果たした、横たわるクロトへと狙いを定める。
オルフェは目を見開いた。急いで岸から沢へと入る。
踝までの浅い水が枷となって纏わりついた。水底の丸石に足を取られた。体勢を崩し、水の中に手を突いたが、それでも足の運びを止めなかった。
させない、絶対に!
無我夢中だった。なにをどうやったのか、自身でも分からぬままに、オルフェは駆け、そして跳んでいた。
ゴブリンの一匹が石斧を振り下ろす。
まさに間一髪。オルフェは既の所でクロトを抱きかかえ、そのままの勢いで水の中を転がった。
直後に、ドンッと強い衝撃に襲われた。
視界が歪む。それでも腕の中のクロトだけは離さまいとした。咄嗟にゴブリン達に背を向けて、クロトの楯となる。
また衝撃が走った。今度は息が詰まった。
自身は、今はどうでも良かった。クロトの安否を何よりも気にした。
オルフェは必死にクロトの様子を求めた。ごく浅い褐色の肌の中の瞳は、閉じられていた。意識がなかった。
息は――、している。気を失っているだけ。外傷は、なさそうだ。大丈夫だ。良かった。
娘を腕の中に抱き止め、無事であったことに、オルフェは心の底から安堵した。ただ、その途端に、無視していた激痛がとてもないほどに襲ってきた。
「ぐっ!」
痛みのあまり、呻く声ですら詰まった。体が熱くなる。
石斧を叩きつけられて皮膚が裂けたらしく、背中が焼けるようだった。最初に受けた一撃で、右腕は骨が折れていた。
痛みに悶えた。歯を食いしばり、懸命に堪えようとした。
まだだ。これで終わったわけではない。クロトを守らなければならない。早くこの二匹のゴブリンから逃れて、安全な場所に避難しなければ。
しかし、体が動かなかった。それどころか、視界がおぼつかない。気をしっかり保つのも困難だった。
目の前が暗くなっていく。その中で、沢の水に赤いものが混じり、流れていくのが見て取れた。
「ク、ロト……」
意識が、遠のいていった。
――
「しっかりしろ! 先生」
必死な声。これは、カロン?
オルフェは沢から引き起こされた。
束の間、気を失っていたのだと分かった。骨の折れた右腕は力が入らず、抱きかかえていたクロトが、滑るように離れた。
カロンは大剣のツヴァイヘンダーを片手に持ったまま、オルフェの左腕を自分の肩に掛けた。
オルフェの足元には、二匹のゴブリンが死体となって転がっていた。その姿が霞み、暗くなっていく――
「先生、先生!」
カロンが呼びかける。また落ちそうになる意識を、オルフェは辛うじて繋ぎ止めた。
クロト、クロトはどこに?
オルフェは、はっとしてクロトの姿を求めた。クロトのほうも目を覚まし、オルフェの足に張り付いていた。
見上げてきた琥珀色の瞳と視線が合う。その無事の姿を認めて、オルフェは安堵の笑みを力なく浮かべた。
「指笛、まさかとは思ったが――。ったく、無茶がすぎるぜ」
カロンは非難の色を滲ませて言った。
「すまない……。でも、駆けつけて、くれたのだね――、カロン」
「当たり前だ」
揺るぎのない言葉。それはオルフェに言い知れぬ安心感を与えた。カロンと落ち合えた。これでクロトを村に帰せるのだと、そう思えた。
ただ、そのカロンの声が緊迫していた。
「こいつは――。先生、ちょっと良くない事態だ」
オルフェは薄目を向けた。そして「えっ?」と、口の中で声を上げた。
視線の先が、ゴブリンで溢れていた。沢の向こう岸の森から、次々とゴブリンが飛び出てくる。
数はすぐに把握できない。既に二十は超えているが、まだまだ続きそうだ。
なぜ、このようなことが? 目の前の光景に理解が追い付かない。
さらにぬっと、巨大な姿が現れた。
二体。伸び放題の長い髪の間から、光のない目が覗く。角ばった顎に鋭い牙。異常なほどに発達した筋肉。
人に似た姿だが、比較の対象とするには、あまりに逞しすぎた。背丈は三メートルは優に超え、四メートルにも迫る。それは巨体を誇るオーガだった。
オーガが現れたことで、オルフェはようやく状況を把握した。この近くに変異種をリーダーとするゴブリンの巣があるはずだ。二体のオーガは、その巣を襲ったのだ。
オーガの襲撃から逃れて、沢へと溢れたゴブリン。貧弱とはいえ、これだけの数のゴブリンと、単体でも手ごわいオーガが二体。
カロンであっても、怪我人と幼子を庇いながらでは、この場を切り抜けるのは不可能だった。
「ニクスは?」
オルフェは咄嗟に救いの手を求めた。
「あっちでホブに抑えつけられている」
見るとニクスは劣勢であった。オルフェの所為で怪我を負い、力が戻っていないからだ。
ホブゴブリンに馬乗りに組み敷かれ、それでもこん棒を振らせまいと、下から手首を掴んで必死に凌いでいる。戦斧は離れた位置に転がったままだった。
「先生、ニクスは気にしなくていい」カロンは後退りしながら、言い切った。
「あいつは、あんなザコにヤラれたりはしない」
「カ、カロン……」オルフェはかすれ声で言う。
「私を置いて、逃げてく、れ」
「はっ? なにを言っている! 先生」
「クロトを、クロトをどうか、村へ、エウリーの元に……。頼む」
オルフェは必死に声を絞り、カロンにクロトを託そうとした。カロンの言うように、ニクスも自分だけなら何とかするはずだった。ただそれで精一杯のはず。
そしてもはや、オルフェは自力では動けない。ならばどうするのが最善か。その答えは自ずと出てくる。
「ダメだっ!」
カロンの怒声が響いた。心からの絶叫だった。
「オレは絶対に見捨てねえぞ」
「いや、カロン。聞いてほしい……」
「聞かねえ! この話はもう終いだ。議論の余地なしだ!」
カロンはオルフェを肩に抱えたまま後退を続け、沢から岸へと上がる。
先頭のゴブリンが迫っていた。カロンはツヴァイヘンダーを地面へと捨てた。腰からダガーナイフを抜くと、襲い掛かってきたゴブリンの喉元に刃を突き立てた。
「ギッツ!」と叫び声と共に、不快な生臭い息がオルフェの顔にかかった。
カロンはゴブリンの腹を前蹴りして刃を抜く。
オルフェを抱えながらでは、大剣はかえって邪魔だった。だがその小さなナイフ一本で、四十ほどの数のゴブリンと、巨体のオーガ二体からどう逃れるというのか。
やはりどう考えても、オルフェはここで切り捨てられるべきだった。
ゴブリンが群れで迫ってくる。
「カ、ロン、クロトを。お願いだ」
この数で一斉に襲われれば、もはや万事休す。オルフェは必死に訴えた。それでもカロンは聞く耳を持とうとしない。
いくつものゴブリンの汚れた顔が、すぐ目の前になった。
「くそったれがあ!」
カロンが声を荒げた。




