(四)ノ16
オルフェは纏っていたクロークを諦めることにした。糸は除けても、粘液がべったりと染み付いて残ってしまう。それにこの悪臭も厄介だった。
長く愛用してきただけに惜しかったが、ただ大半の被害はクロークが受けていたので、脱ぎ捨てさえすれば、あとは顔や手の汚れを皮袋の水で洗い、拭うだけでなんとかなった。
そうしてからすぐに、この場を離れた。アラーケニュの血と死臭が、他の獣を呼び寄せてしまう。長居は禁物である。
クロトの捜索を再開する。気配を探りつつ、ニクスを先導に森をさらに北へと進んだ。
しばらくすると、頬に触れる空気がしっとりと、湿り気を帯びてきた。森の中では停滞しがちな空気。それが俄かにざわつく気配。
そろそろ沢が近い。ニクスが立ち止まり、伺う為にオルフェへと振り返った。オルフェは頷いて応じた。
「うん、ニクス。クロトがおそらく目指したのは、沢を渡ったさらに奥だ。このまま進もう」
「でも、クロトちゃん、そんなに行けるかな? 体力的にここらでも、もうとっくに限界じゃあないっすかね?」
「ああ、そうか――。それは、確かにそうかもしれない……」
「充分に気を付けていたつもりっすけど、どこか見落としがあったかも。どうしますか? 少し方向を変えながら引き返してみますか?」
「う、ん――」
オルフェは判断に迷い、曖昧な返事となった。
確かに幼子が、こんなにも森の奥深くにまで入り込めるだろうか。ニクスの言う様に、ルートを変えて引き返すほうが良いのかもしれない。
しかしもし、クロトがこの先へと進んでいた場合は、取り返しがつかなくなってしまう。
進むか戻るか、オルフェは決して間違いの許されない選択を迫られた。
「とりあえず」オルフェは決断しきれないままに言った。
「沢に出て水を補給しよう。クロトもこの近くにまで来れたのなら、水の音に興味を惹かれたかもしれない」
「ああ、そうっすね。分かりました」
ニクスは頷き、前へと向き直った。
そして二人はほぼ同時に気付いた。ニクスがすっと腰を落とす。それから物音を立てぬように慎重に進んだ。オルフェもそれに倣った。
森から沢への出口が見えてきた所で、立ち止まった。オルフェ達の視線の先に獣がいた。
黒い短毛に覆われた双頭の犬、オロベルスが二匹。
成犬のようだが、体はそこまで大きくない。まだ若い、親から独立したばかりの兄弟なのかもしれない。
ただおかしなことに、この二匹はオルフェ達の存在にまだ気付いていなかった。
聴覚に優れ、鼻も利く。それに強い警戒心を持つにも拘わらず、今は無防備に背を向けたまま、体を伏せている。
その理由は二匹の視線の先の沢にありそうだった。何かに気を取られているのだ。
オルフェは息を潜め、ニクスを見た。ニクスも無言のまま頷きを返した。
ニクスはすぐに動いた。地面を蹴ったかと思うと、もう二匹のオロベルスの間に割って入っていた。そして迷いなく一匹へと、戦斧を上から振り下した。
重い斧刃は振り向きざまの双頭の首の股へとめり込み、容易く胴体を縦割りに裂いた。
甲高い悲鳴。それが響いたのは、ほんの一瞬だった。オロベルスはほぼ即死して、地面に横倒しとなった。
もう一匹は、咄嗟に逃げようとするも、腰が抜けていた。声すら上げられずに、突然の襲撃者へと見開いた驚愕の目を向ける。
ニクスは自分の体を駒のように回転させ、遠心力を利用して斧刃を持ち上げた。そしてそのままの勢いで薙いだ。
その一振りはなんと、オロベルスの二つの首をまとめて切り落とした。とんでもない威力である。
完全な不意打ちとはいえ、ニクスは獣二匹を容易く切り伏せた。まさにあっという間の決着だった。
二匹の双頭犬が死体となって横たわる。ニクスはバルディッシュの柄を地面に突き立てて、「ふん」と鼻を鳴らして見下した。
「身事だね、ニクス」
オルフェは無残な屍を晒すオロベルスへの同情の念を押し隠し、近付きながらニクスを称えた。ニクスは「いえ」と、要領を得ない顔で首を捻る。
「こいつらが油断しすぎなんっすよ。なんだったんだろ。珍しいっすよね」
「この先の沢に、なにか気を取られていたようだが……」
オルフェは言って、そのまま薄闇の森から抜け出た。木々が開け、空を遮る物がなくなった。沢はまだ、僅かに猶予を残した明るさの中にあった。
水がせせらぎ、清らかに耳を撫でる。この沢の水は、やがてレーテ川へと注がれる支流の一つだった。
森の切れ間は大蛇が這った跡かのように、七、八十メートルほどの幅でうねりながら続き、角の取れた丸石を敷き詰めた大地の中央を、水が浅く流れている。
そして沢の中に、何かの姿があった。オルフェは目を凝らす。背の低い、小柄なそれはゴブリンが二匹。
その二匹の間に、さらに小さな、人? が横たわっていた。
オルフェは、はっとして気が付いた。途端に、体中の細胞が騒ぎ出した。
「クロトっ!」
見つけた。クロトだ。クロトがいた。オルフェは叫んだ。叫びながら、駆けた。
二匹のゴブリンは、それぞれ石斧を手にしていた。まさか、それでもう既にクロトを?
オルフェは目を見開いた。
遅かった? 間に合わなかった? いや、そんなはずがない!
オルフェの意識は、その全てがクロトへと向けられた。早くクロトの元へ――
だから自身に迫っていた危険には、まるで気付かなかった。
「先生!」
いきなり耳元で、ニクスの叫ぶ声を聴いた。驚くほどの近さだった。その直後、オルフェの目の前を、物凄い勢いでニクスが吹き飛びながら横切った。
「え?」
丸石の岸に叩付けられるニクスを見て、オルフェは足の運びを止めた。遅れて戦斧が、大きな音を立てて転がった。
漂う異臭。オルフェはようやく背後の気配を気にした。振り返る。
痩せた体躯ではあるが、背はオルフェよりも高い。尖り耳に極端な鉤鼻。薄汚れた醜いその姿は、ゴブリン。しかしこの大きさは――
「変異種?」
こん棒がいきなり迫る。オルフェは横に跳び転がり、それを躱した。すぐに中腰姿勢になって二撃目に備える。
ホブゴブリンはゴブリンの中で稀に生まれる変異種で、体は人よりも大きく、力も人に勝った。ゴブリン十匹よりも強いとされ、生まれながらにして、群れのリーダーとなるのを約束される存在だ。
つまりこれは、オルフェが敵う獣ではなかった。
ホブゴブリンが、こん棒を高く掲げた。オルフェは足に力を込めて、躱すタイミングを計る。
その時、何かがオルフェの横を駆け抜けた。ニクスだ。低い姿勢からホブゴブリンの腰にタックルを見舞う。
ただ威力がまったくなかった。抱きつくといったほうが適切なほどに弱々しい。
ニクスの側頭部は皮膚が裂け、血でぐっしょりと髪が濡れていた。瞳孔が揺れ、焦点が定まっていない。
脳震盪を起していた。そんな状態でもニクスは力を振り絞り、懸命にホブゴブリンを抑え込んでいる。
この怪我はオルフェの所為だった。ニクスは身を呈して、オルフェを庇ったのだ。クロトに気を取られ、オルフェは周りがまったく見えていなかった。
「ニ、ニクス……」オルフェは申し訳なさに声を震わせた。
「先生、行って!」
「しかし」
「いいから、早く! クロトちゃんを」
ニクスは声を発するのも辛そうに、それでも必死に絞り出してオルフェを叱咤した。
「くっ!」
これ以上の躊躇は許されなかった。込み上げる感情を抑え、踵を返す。
オルフェは唇を噛んだ。そして真っ直ぐに、クロトの元へと駆けて行った。




