(四)ノ15
ニクスの苦戦は続いている。このままでは、粘糸に捕われるのは時間の問題であろう。
オルフェは思考を巡らせ、そして自身の心に決断を迫った。
いつまで木の陰に隠れて、ただ見ているだけのつもりなのか。守られてばかりの立場を返上しようと、その為に鍛錬を積み重ねてきたはずではないか。
深呼吸を一つした。油断すれば、心に住みつく意気地なしが、すぐに顔を覗かせてこようとする。
しかし、今のオルフェには成すべきことがあった。早くクロトを見つけなければ。
此処で足止めをされ続けるわけにはいかないのだ。
だから挑む覚悟を決めた。
しかし緊張で顔の筋肉が強張り、意に反して心臓が活発に動き出す。冷静であることが肝要。落ち着けと、もう一度、深く息をついた。
腰の後ろへと手を回し、短剣を抜いた。
後は一歩目の勇気。地面から露出した木の根を力強く踏みしめる。
「よし」と、腹の底に気合いを込めた。
そしてオルフェは、アラーケニュと対峙すべく木の影から躍り出た。
側頭部にも蜘蛛の単眼を並べるアラーケニュの視野は広い。すぐに注意がオルフェへと向いた。
「先生!」ニクスが声を上げて咎める。
オルフェはそれを無視して、アラーケニュに向かって突進した。チャンスは一度しかない。集中力を研ぎ澄ます。
アラーケニュが口器から粘糸を吐き出した。ただオルフェは構わない。それを躱すつもりがないからだ。
「うおおおっ」
体に込めた気合いが口から溢れる。
オルフェは粘糸に捕われるより一瞬だけ早く、短剣を投げつけた。何処を狙うとか、そんな余裕はなかった。
それでも短剣の刃は、アラーケニュの肩口を突いた。
ごく浅い。致命傷には程遠い。ただ、それで構わない。
オルフェは上半身をねっとりとした糸に捕われ、バランスを崩して地面に伏した。
肌に直接触れる部分の気持ち悪さ。そしてこの嘔吐くほどの悪臭。体の自由を奪われ咽せ返りながらも、それでもオルフェは満足した。
ほんの一瞬の隙。それだけでニクスには充分だからだ。
ニクスはもう既に、アラーケニュの懐にいた。
「柔らかそうだな、お前」
低い声。口調も変わった。ニクスのタガが外れてしまった。
戦斧を下から切り上げる。迫ってきていた鉤爪が、飛んだ。
続けざまの斬撃。今度は前脚が切断される。どす黒い体液が飛沫となって散る。
さらにもう一振り。蜘蛛の脚をまた一本、ニクスの斧刃が奪った。
アラーケニュは声帯を持たないようだ。無言のまま、前のめりに体勢が崩れた。
蜘蛛の単眼が、小柄なニクスの背の高さと並ぶ。幼さが抜け切れない若者の、今は冷酷な顔が、黒い曲面に写し取られた。
「邪魔だ。もう、死んでろ」
ニクスは無慈悲な処刑人のように抑揚なく告げて、バルディッシュを頭上に高く掲げた。
それは、今まさに縄から解き放たれんとする断頭台。重い斧刃は、まるで空を切るかの如く些かの減速もなく振り抜かれた。
アラーケニュの頭がボトリと地面へと落ちた。体液が吹き出し、胴体の裸の表皮が黒く濡れる。
一瞬だけ遅れて、アラーケニュは生命を維持する為の力を失った。六本に減った残りの脚のすべてが折れ、地面へ崩れて伏した。
断末魔に苦しみビクビクとする脚。それを見たニクスが追い打ちをかけようと、バルディッシュをもう一度、振り上げる。
「そこまでだ! ニクス」
オルフェは厳しく叫んだ。ニクスはピクリとして、動きを止めた。辛うじてまだ、聞く耳を持っていた。
「それは痙攣のようなもの。もう死んでるよ」
オルフェが口調を和らげ、小柄な背中に告げると、ニクスは振り上げていた戦斧をゆっくりと下した。柄から手を離し、ドスンと重量感のある音と共に、バルディッシュが地面へと横たわる。
ニクスは肩を上下させる。天を仰ぎ、大きく息を吐き出した。そうしてから、アラーケニュの肩口に刺さっていたオルフェの短剣を抜き取った。
「先生、無茶しないでください。護衛役の立場がないっすよ」
ニクスは振り返り、歩み寄りながら苦言を呈した。いつもの彼の口調に戻っている。
それでオルフェはほっと、安堵の息をついた。
「でも、少しは役に立っただろ?」
「いーや、余計だったっすね」
ニクスは憎まれ口を返しながら、オルフェのすぐ傍らで屈んだ。呆れた目を、オルフェの様の無い姿へと向ける。
オルフェは今、体をアラーケニュの粘糸に絡まれ、イモムシのように地面を這うことしか出来ない。
「それでなのだが、ニクス」
「なんっすか?」
「いや分かるだろ? これ、取ってくれないか? 動けない」
オルフェが頼むと、ニクスは口をへの字に曲げた。返事はせずに、ただ黙って鼻から息を抜く。
「ニ、ニクス?」
「なら先生、約束して下さい」ニクスは真顔で言った。
「さっきみたいな危ない真似は、もう二度としないと」
「だが、しかし。私だって――」
「オレが先生の鍛錬の相手を務めるのは、万が一の際の護身の為。自らが獣に挑むなんて以ての外です。そういうのはオレや――、カロンさんの役目なんっすから」
いいっすね? と強い声で念を押されたが、それでもオルフェは頷きたくなかった。
ニクスの言っていることは分かる。しかしオルフェとて、同じ男としての矜持がある。感情で承服しかねた。
そんなオルフェを見て、ニクスは少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「確かにオレはカロンさんには及びません。いろいろと未熟者っす。でも約束します。先生は絶対に守ります。だからオレを、信じてほしいっす」
ニクスが訴える。その言葉は、オルフェに何が大事かを思い出させた。
「――ニクス」
だから今度は頷いた。
小さな見栄に拘り、目的を見失いかけていたのは自分のほうだと気付いた。
「そうだね、すまなかった」オルフェは自分の非を認めた。
「もう無茶はしない。約束する。それに私は、ニクスをちゃんと信じているよ」
「オレも、先生のその言葉を信じるっすからね」
「ああ」
「うん」
互いに頷き合い、そして間が落ちた。ニクスはじっと動かない。
納得したはずだ。なのにまだ、糸の絡みを取ろうとしてくれない。オルフェは焦れた。
「だから、ニクス」
「なんっすか?」
「いや、早くこれを取ってと、さっきから言ってるのだが」
「ええ、まあ、そうっすね――」
歯切れの悪い返事。ニクスはなおも動かない。それでオルフェは、ようやく気付いた。
「まさか、ニクス」
「はい」
「なにか尤もらしく言っていたが、実はこの糸に触りたくなくて、躊躇っているだけ、とかではないよね?」
いやあ、とニクスは誤魔化すように笑った。図星だった。
「なんかそれ、気持ち悪くないっすか?」
「気持ち悪いよ! それに臭いし」
「やっぱり! ああ、イヤだな。苦手なんっすよ、オレ、こういうの」
「いいから、早く!」
オルフェは声を大きくした。こんなことで押し問答をしている場合ではない。
ただニクスも承知はしており、いかにも仕方なさそうに、「分かったっすよ」と覚悟を決めた。手にしていたオルフェ愛用の短剣に目を落とす。
「じゃあ、先生のコレ、使わせてもらうっすよ」
ニクスは短剣をオルフェの体の隙間に差し込み、粘糸を断ち切っていった。不快そうに顔を歪め、恐る恐る手を伸ばして糸を掴み取る。
引っ張り取ろうとすると、粘液がどろりと垂れた。
「うわあ」
ニクスが、情けない声を上げた。




