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(四)ノ13

 オルフェはニクスを護衛役に伴い、再びニンフの森の中にあった。

 森に入る際にはその入り口で、親指と人差し指を口に咥えて指笛を吹き、甲高い音を森に響かせた。

「なんか懐かしいっすね、それ」

 ニクスが短く笑い、彼も真似て指笛を鳴らした。

 万が一、森で離ればなれになった際に、落ち合う為の合図である。この指笛の音が届いていれば、カロンはオルフェが森に入ったのだと認識するはずだった。


 そうしてから入ったニンフの森は、改めて言うまでもないが、まるで果てなどないかのように、途方もなく広い。それでもクロトを探すのに、闇雲に歩き回る必要はなかった。

 エクニオスの話からクロトが森に入って、既に四時間は経過している。ただ子供の足では、森の中での行動に限りがある。

 それに、クロトがこの森に惹かれる何かがあったのだとすれば、それはオルフェがクロトと初めて出会った場所。ホシユキノシタが群生していたあの辺りを目指すのではないだろうか。

 オルフェはそう考えた。そうであるのならば、自ずと捜索の範囲は絞られてくる。


 先導するニクスは、森の中を少し進むごとに立ち止まり、辺りを探った。

「先生、カロンさんとも早く合流したいっすね。オレ、あの人みたいに気配を感じ取るの上手くないし。うーん、どっちに向かったんだろ?」

「うん」オルフェは呟き、そして推測した。

「ここより西側はない、かな」

「どうしてっすか?」

「今日は朝から西側を中心に森を歩き回ったからね。クロトが森に入ったであろう時間とも被っている」

「なるほど。カロンさんなら、自分がクロトちゃんの気配に気付かぬはずがないと、そう考えるでしょうね。実際、あの人の探知能力って半端ないっすからね」

 ニクスは「ふむ」と頷き、「なら先生」と、質問を重ねた。

「反対に東の方向はどうっすか?」

「そっちはしばらくは普通に歩けるけど、岩だらけだ。そのうち足場の起伏が激しくなる。大人ならともかく、クロトにはまず無理だろう」

「ああ、そっか。言われてみればそうだったっすね」

 森に入るの久しぶりだからな、とニクスは独りごち、そしてまた、指笛を鳴らした。オルフェも一緒になって耳を澄ませてみたが、カロンからの返事はない。

「うん、ニクス」と、オルフェは切り替えるように言った。

「とりあえず、カロンがどう捜索してくれているかは今はいい。クロトが森のどこを目指したか、確証はないが心当たりはある。ともかく私たちは、このまま真っ直ぐに北に進もう」

「あ、はい。了解っす」

 ニクスは素直に承諾し、オルフェが指示した方角へと歩き出した。オルフェもそれに付いて行く。


「それから、ニクス」

 オルフェは、これだけは言っておかねばと、背中に声をかけた。

「もし途中でじゅうと遭遇しても、退けるだけにしてほしい。とにかく必要以上には――」

「分かってるっすよ。司祭様にも目的を見失わぬように念を押されました。約束します。決して深追いはしません。クロトちゃんを見つけるのが最優先っす」

 ニクスはオルフェを遮り、はっきりと応えた。オルフェは口を噤んだ。

 不安はある。だが、それを承知で一緒に森に入ってほしいと頼んだのだ。

 今のニクスならば、きっと獣に対する私怨を抑え込んでくれると、とにかくそう信じるしかなかった。


 オルフェは改めて捜索に専念する。クロトは何処に居るのか。

 もしかしたら、案外とすぐ近くなのかもしれない。歩きながらその僅かな気配も逃さまいと、懸命に意識を張り巡らせた。

 ただ見渡せば、森は明るさのトーンを抑えようとしていた。苔むした地面に描かれる影は薄く長く伸ばされ、差し込む陽光は頼りないものへとなりつつある。

 日が暮れ始めれば、森が暗幕に覆われるのは、あっという間だ。

 景色は、乾く前に指で擦ったインク線のように、輪郭を曖昧に暈す。色味を失っていく木々の姿に、オルフェは心に落す不安の影を濃くしていった。

 捜索可能な時間はもう僅かだ。それまでにもし見つからなければ、どうすれば良いのだろうか?

 燻っていた焦燥感がいきなり大きくなる。考えたくはないが、クロトが無事でいる補償はどこにもないのだ。


「先生、大丈夫っすよ」

 ニクスは背中越しに何かを感じたのか、前を見据えたままに言う。

「オレが付いてるんで。先生の気持ちは分かってるっすよ。真っ暗になろうが何だろうが、諦めるつもり、オレもないっすからね」

「あ、ああ……」

「そうなっても大丈夫なように」

 ほら、とニクスは肩から斜めに提げた布袋を軽く叩いた。

「ちゃんと、松脂まつやにも持ってきてるっすから」

 松脂は適当な木切れに布を巻き付けて松明とする際の燃料に用いる。つまりニクスは、捜索が長丁場になることも折り込み済みで準備してくれていたのだ。

「先生が言ったっすよ。クロトちゃんはきっと無事だって。オレもそう思ってるっす。今頃、お腹を空かせているのかな? 早く迎えにいかないと。先生、みんなで一緒に帰りましょうね」

 ニクスは肩越しに振り返り、無邪気に笑った。幼さの抜けないはずのその表情が、今は不思議と大人びて、オルフェの目に頼もしく映った。

 オルフェは小さく頷いた。胸が詰まって、言葉がすぐに出てこない。

「――ズルいな、ニクスは」

 一言だけを、何とか絞り出す。

「えっ? 何がっすか?」

 ニクスは素なのだろうか、恍けたように聞き返してきた。

「いや」

 オルフェは曖昧に濁し、俯いた。口元が微かに緩んだ。クロトが突然いなくなり、オルフェはもちろん悲傷した。

 ただそんな中で、周りの人たちは今のニクスのようにオルフェの心に寄り添い、叱咤してくれた。たくさんの優しさが傍にあった。

 ニクスの言うとおりだ。自分が娘の無事を信じないでどうするというのか。

 心は痛み、棘の蔦に締め付けらたかのように息苦しい。ただそれでもムーサイの人たちの思いに包まれ、オルフェは確かに救われていた。


 オルフェは俯いたまま歩き、そして目を伏せていた。感傷的になっていた。なので、ニクスが急に立ち止まったことに気付かなかった。自分より背の低い若者の後頭部に、鼻柱を強かにぶつけてしまった。

「った!」

 オルフェは思わぬ痛みに声を上げ、鼻を押えながらニクスを見た。ニクスは足を少し開いて、腰を落とし気味にしながら、微動だにしない。横から覗き込むと、表情が鋭くなっていた。

 ニクスは何かを感じ取ろうとしている。その何かとはじゅうだ。オルフェは察して、途端に緊張が体を駆け巡った。


「避けられそう?」

 オルフェは期待を込めて訊いたが、「いえ」とニクスはすぐに否定した。

「むこうの方が早かったみたいっすね。指笛、まずったっす。もう既に標的にされてます」

「そう、か」

「前方から来ます。先生はそこの木の陰に隠れて下さい」

 ニクスは獣が出てくるであろう位置を定め、左腕を後方へと伸ばして指し示した。

「分かった」

 ここからはニクスの領分。オルフェに否はない。ニクスの指示通りに、ミズナラの木の影へと身を潜める。

 間を置かずに聞こえてきた草摺れの音は、カサカサと小刻みなもので、重量感はあまりなかった。音に重なりはなく、数はおそらく一匹。


 ニクスは自身の背丈ほどもある柄の長い戦斧バルディッシュを両手に持ち直し、下段脇の構えを取った。

 相手は一匹だけと、ニクスも当然察しているはずだ。それでもニクスは、獣の正体を見極められずに緊張していた。危険な相手だと、本能が訴えかけているようだった。

 草を摺る音が近くなった。もうすぐの所まで迫っている。

 オルフェは固唾を飲んだ。その正体を少しでも早く知ろうと、木々の向こうの暗がりへと目を凝らした。

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