(一)ノ3
オルフェは薄く開けた目を、木の麓で身体を丸めるカロンの後ろ姿へと向ける。
ゴブリンの群れに囲まれても、巨漢のオーガに行く手を阻まれようとも、怯むことなく獅子奮迅に立ち回る勇敢さは今は見る影もなく、その背中は生まれたての子鹿のように震えていた。
そういえば、あれで苦いからと麦酒を一滴も飲めない男であった。
ホシユキノシタは確かに苦みが強い。だがそれは、調薬の際に多少なりとも緩和させてやれば、子供でも服用できる程度のものだ。
そのはずなのだが、それでもカロンにはどうしても無理なのだろう。
風邪一つひいたことないと嘯いたことがあるが、それは薬を飲みたくない一心からくるものなのかもしれない。
だとするならば、これからもそうあり続けてほしいと、オルフェは願った。彼が服用できそうな薬を、作れる自信がなくなっていた。
そのカロンはというと、吐き終えて一応の落ち着きを取り戻せたのか、革袋の水で口を濯いでいた。
顎に垂れたのを手の甲で拭い、いきなり「先生!」と鋭い声を上げた。
「どうした?」
オルフェは声を張った。
「ちょっと、こっちへ来て見れくれ」
「キミの嘔吐の原因は、体質に合わないものを摂取した所為による拒絶反応だ。大丈夫、病気ではない。吐瀉物を確認するまでもないよ」
「あ? いや、違う。そうじゃあなくてだな、いいから来てくれよ」
声に少し緊張を感じられる。それにカロンの目線は、その場より離れた遠くの方へと向けられていた。
何事か見当がつかないままにオルフェは腰を上げた。近付くと、カロンは指をさして自分が見ているものを示した。
その指の先を辿る――
岩と草の茂みに囲われ、やや開けた場所。木々の切れ間から光が差し込まれていた。
そこに何か――、いや、それは人だとすぐに分かった。
それも幼い女の子だ。木の根を枕に倒れている。
オルフェは、そうと認識した途端、考える間もなく身体が動いていた。迷いなく駆けだす。
「あっ、おい! 先生」
カロンも慌てた声を上げ、それに続いた。
ただもっとも、オルフェの勢いが良かったのは出だしだけだった。ここらは足場が悪い上に起伏も激しい。
胸の高さほどもある岩を乗り越えようともたついている間に、カロンに横からあっさりと追い抜かれた。
「ほら、先生」と、手を差し伸べられ、引き上げてもらう始末である。
眠り姫の元に颯爽と現れる王子のようには恰好つかなかったが、ともかくオルフェは倒れている女の子の元へと駆け付けた。
そしてすぐに、その傍らへと腰を落とす。
女の子は見知った顔ではなかった。少なくともムーサイの村の子ではないのは確かだ。
身に纏う服は上質そうな絹であったが、作りは簡素で飾り気が無く、それも随分と草臥れていた。
五歳くらいだろうか。濡羽のごとく黒い髪が何よりも目を惹いた。この辺りではまず見かけないほどに珍しいものだからだ。
閉じられた瞼を縁取る睫毛もまた黒く、そして冬栗鼠の尻尾のように豊かである。
きめ細やな幼い肌はごく浅めの褐色。これはカロンのように日に焼けたのとは違い、生まれながらのものであろう。
ただその頬には、不自然な赤みが差している。なぜ赤いのか、その理由はすぐに察しがついた。
オルフェは、女の子に呼びかけた。
反応を示さない。息が荒く、口を半開きにして短い呼吸を繰り返していた。意識は薄弱状態。
手首を取り脈を確認する。はっきりとしていて力強いが、かなりの速さだ。
そっと上体を抱き起して、首筋とそれから額に手を当てた。やはりかなりの高熱であった。
もう一度呼びかけて、反応がないのを改めて確認する。
「先生、どうなんだ? 具合が悪そうだけど、大丈夫なのか? その子」
「ああ、もちろん。と言いたいところだけど、これは……、危ないな」
「そんな、マジかよ」
「カロン、この子の親は?」
オルフェに問われ、周囲の様子を探ったカロンはすぐに、「いや」と返してきた。
「辺りに――、誰もいないようだぜ」
「そう、か」
「しかし、なんだってこんなところに子供が独りで倒れてるんだ?」
「う、ん」と、オルフェは応える。
「考えたくはないが、親の方は獣に襲われたのだろうか?」
「子供だけを残してか? 先生、それはあり得ないぜ。ヤツらはまず弱いものから狙う。親の隙をついて子供だけを襲うことはあっても、その逆はないと言い切れる」
なるほど、そういうものかな、とオルフェは一応、頷いた。
獣の性質についてはカロンのほうが熟知している。彼の言い分はもっとものように思えた。
それに手早く女の子の身体を診たが、これといった外傷は見受けられなかった。擦過傷や、獣に噛まれたような形跡もない。
だが、それでも幼子が単独で、このように森の奥深くまで入ったとは考えにくい。親か、そうでなくとも何らかの同行者がいたはずである。
女の子からその辺りの事情を聞ければ良いのだが、今の状態でそれを望むのは無理だった。
「先生、そんなことよりもさ、熱あんだろ? その子。薬かなにか早く飲ませてやってくれよ」
「今は止血薬や抗毒血清ぐらいしか携行していないんだ。さすがに森の中で熱にうなされた子供と遭遇するのは想定外だよ」
「あ、じゃあ、今日いっぱい採った草でさ、それでパッパッと作ったりとかは?」
「材料だけあっても、調合する道具がない。それに体の小さい子供の調薬は、その分量や衛生に神経質になる。とてもこんなところでおいそれとはできないよ」
なんだよ、とカロンは地団駄を踏むように悔しがった。
「なら、すぐに村に連れて行こうぜ。今すぐに、さあ早く」
「落ち着くんだ、カロン。動かすにしても、まずはこの子の容体を見ないと」
オルフェは急かすカロンを宥めながら、革の水袋を取り出し、女の子の口に充てる。
傾けて少量の水を流し込んでみた。すると、喉がごくりと鳴った。
ほう、と驚いた。
試みたものの、薄弱の意識下では経口補水は無理かと思ったのだ。生きる為の本能がそうさせているのか、これなら大丈夫かもしれない。
オルフェは同じ行為を何度か繰り返し、女の子に少しづつ、ゆっくりと水を飲ませた。
すると、程なくして呼吸が落ち着くようになった。やはり脱水症を起こしかけていたのだ。
取りあえずこれで、容体が急変するような事態は回避できそうだ。オルフェは、ふうと安堵の息を漏らした。
ただそれも目下の危機を脱したに過ぎない。根治させるには、やはりカロンの言うように一刻も早く村へと連れ帰り、診療所で適切な治療を行うべきであろう。
ただ――
オルフェは小さく息をついた。その為には一つ、確認しておくべきことがあった。
あまり気の進むものではない。オルフェは心が沈むのを感じながら、背後に立つカロンへと呼びかけた。
「カロン、すまないが一つ頼まれてくれないか?」
「ん? ああ、何をすれば良いんだ?」
「ここら周辺を見回って来てほしい。それで探してほしいんだ。この子の、その、親を……」
「親を、か」
カロンは含む言い方をした。それで自分の意図を読まれたのだと察したオルフェは、取り繕うように「もちろん」と、声を少し大きくする。
「無事に保護できるのなら、それが何よりなんだ。でも、もし、もしもそうでないのなら」
親は獣に襲われたのだとしたなら――
カロンはあり得ないといったが、オルフェは、やはりそう考えた。
誰かが殺されたと前提にして、話を進めなければならない。
この幼子は親を失った――
それがオルフェの心を憂鬱にさせた。
森のどこかに争ったり、引きずられたような形跡。または体の一部や血痕。そういったものが、まだ真新しく残されているかもしれない。
つまり、このままここで待っていても、女の子の迎えは来ないという確証。
オルフェは、それが欲しかった。
「分かったよ、先生」
カロンはオルフェの真横へと立ち、でもな、と続けながら傍らにしゃがんだ。
そして「それはできない」と、静かに告げた。
意外な言葉に、オルフェは思わず顔を横に向けて、カロンの顔を見つめる。いつになく真剣で、迷いのない目がそこにあった。
「オレがこの場を離れて、先生はその間どうするつもだい?」
「ん? もちろん、この子を放ってはおけない。ここで一緒にキミの帰りを待つよ」
「うん、そうだろうな」と、カロンは頷いた。
「だが、それがダメだと言っている。オレの役割は先生を守ることなんだ。オレがいない間にもし、獣に襲われたらどうなる? 先生だけだと間違いなく殺られるぜ。もちろん、その子も一緒にな」
「わ、私だって、少しは体を鍛えている。獣の一匹や、二匹――」
「獣は大抵、群れを成している。三匹や、四匹、それ以上で襲ってきたら?」
うっ、とオルフェは返事に窮した。本音を言えば、単体での強さなら獣の中で最底辺のゴブリン一匹にだって怪しい。
だが、女の子の親がもし無事だとするならば、この場所に戻ってくるはずで、その可能性が残る現状下では、女の子を勝手に連れては行けない。かと言って、独りにしておくことは尚更にできない。他に選択肢はないのだ。
オルフェは「ぐう」と唸って、ジト目でカロンに訴えかける。だがカロンは「そんな目をしてもダメなものはダメだ」と、首を横に振る。
こうなると彼はなかなか手強い。それでもオルフェには奥の手があった。
「心配いらないんだ、カロン」
オルフェはそう言って、薬や治療道具を収めた腰カバンの蓋を開けた。薬包紙を一つ取り出し、それをカロンの眼前に突き出す。
「私にはこれがある」
「それは?」
「タンジーにカニナ、それにアルベンシス。後は、まあ、ともかく数種類のハーブを乾燥させたものだ」
「ふーん、ハーブ、ね。で、それがどうかするのかい?」
「これらはね、ハーブのなかでも特に匂いが強い種類なんだ。この匂いには動物忌避の効果がある。獣は、人よりも嗅覚が遥かに発達したものが殆どだ。ヤツらには強烈で、刺激が強すぎるんだよ。そしてこれを燃やせば、その匂いが周囲へと広がる」
「つまり、その匂いを嫌って獣は近寄ってはこない?」
「そう、理解が早いね。まさにその通りだよ、カロン」
「本当に? そんなことで?」
「本当だよ。嘘なんかじゃあない」
「絶対って言いきれるのか?」
「ああ、言い切れる」
オルフェは頷いて、カロンの目を真っすぐに見据えた。カロンも強い意志の目で見返してきた。
しばらく二人はにらみ合う形となった。オルフェが先に口を開く。
「私を、信じてくれるね? カロン」
この言葉でオルフェの勝ちは確定した。
「ったく」と、カロンは目を逸らし、勢いよく立ち上がる。
そして、乱暴に自分の頭を掻きながら「つくづくオレは先生に弱いな」と、言葉を吐き捨てた。
そう、オルフェの奥の手とはハーブなどではない。本人も自覚しているようだが、カロンの生来の人の良さと、オルフェに対する甘さ、そして信頼だ。
カロンの中で、先生が言うのだから間違いはない、という思いがある。
危険はないのだと納得さえさせてしまえば、彼は頼みを断れない。オルフェはそこに付け込んだのだ。
「それで」と、カロンは言った。
「どれくらいだ」
「ん?」
「いや、無制限ってわけじゃあないんだろ、そのハーブ。どのくらい効果が持つんだ?」
「ああ、そう、だな――。うん、十五分といったところだろうね」
「十五分だな、分かった」カロンは頷いた。
「ともかく十五分だけは、周辺で変わったことがないか調べてみる。ただし、だ」
カロンは空を見上げ、言葉を続ける。
「それで何の成果が得られなくとも、この件はそれまでだ。延長はない。先生、それだけは理解してくれ」
視線をオルフェへと戻し、カロンは毅然とそう告げた。
オルフェは目をチラリと上に向けた。この辺りからは白い空を望むことができた。陽光はこれまで通りに明るい。
それでも、うねる大地に描かれる影は、少し長く伸びているようにも見えた。
村に戻るのに要する時間を考慮すれば、森にいられる猶予は、もはやほとんど残されていなさそうだ。
ここがカロンにとってのギリギリの妥協点なのだと、そう察した。
「分かったよ、カロン」
オルフェは神妙な面持ちで、頷きを返した。