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(四)ノ11

「あなたもですよ。控えなさい、ハルモニア」

 パーン司祭は咎めはしたものの、その実、彼女の行為に我が意を得たりといったところのようだ。どこか満足気で、柔らかみを含んだ口調だった。

 それでもハルモニアは、悪戯が見つかった子供みたいに、体をピクリとさせて硬くした。いつもの無表情の中に、微かな不満の感情が覗く。

「失礼を致しました。どうかお許し下さいませ」

 それを誤魔化す為か、すぐに彼女は背筋を伸ばしたまま深く腰を折った。決して本意ではないはずだが、彼女の所作に乱れはない。あくまでも折り目正しく謝罪した。


「いえ、そんな。とんでもない」

 オルフェは気を取り直しつつ、彼女に応えた。もしあのタイミングでハルモニアが割って入らなけば、確実に感情に飲み込まれていた。むしろオルフェは感謝すべきであった。

 一方で頬を張られたヘファイトは、未だに動揺の最中にあった。よほどショックが大きかったのか、石像のように固まったまま動けないでいる。


 ハルモニアがゆっくりと顔をあげた。ヘファイトに短く視線をやり、オルフェには目礼を返した。

 そしてパーン司祭の言葉に従い、彼女は静かな足取りで元居た場所へと戻っていく。

 その段階に至って、ようやくヘファイトが「あっ」と声をあげた。

 しかし後が続かず、結局はなにも返せなかった。ハルモニアの真っ直ぐに伸びた背中を、口を半開きにした状態で、ただ目で追うだけだった。

 そんなヘファイトの腹を、今度は妹のテュケが腕を伸ばし、ポンと力なくパンチした。


「バカヘファイト」

 テュケはオルフェに抱きついたままで、ヘファイトを詰った。もう一度緩く、麦酒エールで丸く突き出た腹を殴る。

「なんで、わざわざ言わせたのさ、兄貴に。クロトちゃん助けたいって。そんなの当たり前なのに……」

「えっ? あ、ああ。しかしよ、テュケ。オレもよ――」

 テュケは首を横に振って、ヘファイトを遮る。

「バカ、ヘファイトのバカ。本当は兄貴だって、助けたくって、助けてほしくって、胸が張り裂けそうで。それでも、そんなことしたら皆が……。だからお兄ちゃん、一生懸命に我慢してたのに。なのになんで責めるのよ? ヒドイよ、そんなの――」


 テュケの声は擦れ、そして吊り上がり気味の目の、大きな瞳から涙が零れた。濡れた頬を拭うように、オルフェの胸に埋める。

 くぐもった泣き声が静かに周囲に響いた。

「テュケ……」

 子供の頃は何かに悲しければ、テュケは兄に抱きつき、泣いていた。

 オルフェは少しだけ懐かしく、感傷に浸りながらテュケの、母から譲り分け合ったアッシュブロンドの髪の頭を優しく撫でた。そうしながら兄を思い遣り、泣いてくれている妹を、心から愛おしく思った。


「テュケちゃん……」

 エウリーケが切ない声上げた。その場に蹲り、彼女はそのまま地面にベタ座りした。

 テュケの涙が呼び水となったのだろう。伏せた顔を両手で覆い、堪えきれずにエウリーケも泣き始めた。

 妹を慰め動きの取れないオルフェを目で制しながら、グライア婆がエウリーケへと歩み寄って、そっと彼女の肩を抱いた。

 老婆は「よしよし」と囁きながら、エウリーケの頭に自分の頬をあてがい、優しくあやした。

 そうしながらグライア婆の目は、ヘファイトへと向けられる。


「ええ加減にせえよ。ヘファイト」

 老婆は子供に言って聞かせるように、ヘファイトを叱った。

 ただこの厳めしい中年男は既に、ハルモニアを怒らせただけでなく、さらに二人の女性を泣かせてしまった事態に、またもや動揺し狼狽えていた。

「いや婆さん、その、オレだってよ」と、しどろもどろに言い訳を試みる。

「だからえっと、何とかしたいって、その、ただそれだけで……」

「ああ、そうじゃろうな。ただそんなもん、この村の誰もが同じ気持ち。当たり前ぞ。勇んで場を乱してどうする? 先生やこの子が、どんな思いで気丈に振舞っておったか、少しは理解せえ」

 うっ、とヘファイトは言葉を詰まらせた。返す言葉はなく、しょんぼり肩を落とし、背中を丸めて意気消沈とした。


「先生よ」と、ヘファイトは力ない目を向けてくる。

「その、すまなかったな。オレ、感情的になってよ」

「いや」

 オルフェは首を横に振って応えた。

「気持ちはすごく嬉しいよ。それにね、確かにその通りだなって……」

「先生?」

 イーオがオルフェの言葉の雰囲気に何かを感じ取ったらしく、心配そうに声を上げた。

 オルフェは、ゴメン、と声には出さず、口の動きだけで彼女に謝った。オルフェが無謀にも、単独で森に入ろうとしたのを諌め、そしてエウリーケの元へと背中を押してくれたのはイーオである。

 だからこれからのオルフェに、イーオは呆れるかもしれない。それに後でカロンにも、きっと怒られるのだろう。


 それでもヘファイトのむき出しの直情さは、堪えようとしていたオルフェの心を、どうしようもない程に激しく揺さぶった。

 居場所に見当がついているのだから、そこに迎えに行く。確かにこれほど当たり前はなかった。

 クロトは森にいる。クロトを助けたい? 当然である。

 オルフェの心はすでに、ニンフの森の中にあった。

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