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(四)ノ10

「よし!」

 ヘファイトが大きな声を上げた。「先生!」と、気合いの入った厳めしい髭面を向けてくる。

「カロンのヤローは、もう森に入っているんだったな?」

「ん? あ、ああ。イーオおばさんから話を聞いて、それからすぐに向かってもらったよ。私は……、足手纏いだと置いていかれた」

「そうかよ。でもまあ、アイツらしいか。しかしよ、ヤツにばっかまかせてられねえよな」

 ヘファイトは、麦酒エールで突き出た自らの腹を勢いよく平手打ちにした。ただし、勇ましい行為の割には腹鼓はポンッと、柔らかな音で鳴る。


坊主エクニオス! 村の男どもを橋の前に集めろ。オレたちも総出で森に捜索に入るぞ」

 エクニオス少年は、彼にしては随分と力強く頷いた。アルゴルもすぐに腰を上げた。

「あ、オレもやるよ。エクニオス、手分けしていくぞ」

「うん」

「待って」

 エウリーケが急いで立ち上がり、アルゴルを留めようとするが間に合わなかった。

 アルゴルは、伸びてきたエウリーケの手をすり抜けてエクニオスへと駆け寄ると、少年の肩に力強く手を乗せた。二人とも、すっかりその気になっている。


 ただこれは、オルフェの望むものではなかった。

 傍らのテュケも、「え? ちょっと、待ってよ」と戸惑いの声を上げた。だが若い二人は聞く耳を持つことなく、それぞれが受け持つ範囲の相談を始めだした。

 それを見てテュケが、オルフェへと顔を向けた。見上げてきたその目は、このままで良いの? と訴えている。

 もちろん放ってはおけない。オルフェはすぐにテュケの視線を切り、二人を止めようとした。その時だった。

「なりません!」

 鋭く言い放つ声が響いた。それはパーン司祭だった。


「エクニオス、行ってはいけません。アルゴルもです」

「そんな――。何でですか? 司祭様」

 アルゴルはパーン司祭へと体を向け、不服そうに唇を尖らせた。

「先生とエウリーケさんには酷なことを言います。ですが日暮れも間もなくです。今から森に入れば、多くの村人が命を危険に晒すことになるでしょう。そのような真似、この私が許すとでもお思いですか?」

「これは非常時なんだ。司祭様、そんなことを言っている場合じゃあねえよ。分かってくれ」ヘファイトが気色ばむ。

「ええ、分かります。あなたたちの性格は分かっているつもりですよ。だからそこ、余計に行かせられないのです」

「なんなんだよ! クソッ! 意味が分からねえ」ヘファイトは苛立ちに声を荒げた。

「もういい、オレは勝手にやる」

 憤然とした態度で、ヘファイトはパーン司祭に背を向けて歩き出した。それにエクニオスとアルゴルが同調して付いて行こうとする。


「いや、ヘファイト」

 オルフェは行く手を阻み、ヘファイトたち三人の前に立ちはだかった。

「司祭様のおっしゃるとおりだ。クロトの為に、もしも誰かが犠牲になれば、私は自分が許せなくなる。だからお願いだ。やめてくれ」

 オルフェは毅然として言った。もちろん彼らの気持ちはありがたい。オルフェとて本音では、自らもこの三人に付いて行きたいぐらいだ。

 だがパーン司祭の言い分に理があるのは明白だった。パーン司祭は村人の性格を分かっているからこそと言った。

 確かにそうなのだ。もしこのままヘファイトたちが皆へと触れ回れば、村の人たちは危険を顧みることなく、こぞって森にクロトを探そうとするだろう。


 日の出と共に祈りを捧げ、日の下で土を耕し、日が隠れれば麦酒エールを酌み交わして共に唄う。

 ムーサイは、村そのものが一つの大きな家族。そんな思いが村人の根底にある。

 だからクロトのことも、我が娘、妹のようにと懸命になってくれるのだ。


 しかし日暮れが迫り始めている。今から森に入れば、パーン司祭が危惧するように、全員が無事で済むなんてありえない。

 子供一人と多くの村人の命。どちらが重いかと、天秤の計りにかけるような真似はしなくとも、やはりそんな彼らを森に入らせてはいけなかった。


「なんでだよ、先生!」ヘファイトはドングリのような目を見開き、オルフェにも噛みついてきた。

「なんで先生まで止めんだよ。人手がいる。そのはずだぜ。それとも何か? カロンがもう探しているから、それで充分とでも言いたいのか?」

「そうではない。ただ私は――」

「そもそもよ、おかしくねえか? カロンには行かせておいて、オレたちはダメって。なんだよ、それ? オレらはよ、そんなに頼りにならねえのか」

「違うんだ、ヘファイト」

 オルフェは分かってほしくて、必死に訴えた。頼りにしていないのではない。頼りにするところが違うのだ。


 じゅうとの戦い方を知るカロンと、村の力自慢とでは、強さの意味が違う。

 ましてヘファイトは片足が不自由なのだ。もしも森で獣に襲われたらどうなるか。

 ここで行かせてしまえば、間違いなく後悔する。これまでの当たり前の日常の壊れ、そして二度と元に戻らなくなってしまう。

 オルフェはあの時のカロンの気持ちを、今は実感として理解した。クロトがいなくなったと知り、すぐに森に行こうとしたオルフェをカロンは必死に止めた。カロンはオルフェを守りたかったのだ。

 そして同じようにオルフェも、ヘファイトたちを守りたかった。

 クロトだけではない。ヘファイトもエクニオスもアルゴルも。オルフェは誰一人として、自分の傍からいなくなってほしくないのだ。

 だから、ヘファイトに分かってほしかった。もどかしさが、ただただ募る。


 しかしそんなオルフェに、ヘファイトが険しい表情のままに、ずいと詰め寄ってきた。上背こそ殆ど差がないが、肉付き良く逞しい体が迫り、その体格差にオルフェは圧倒されそうだった。

「ヘファイト! 控えなさい」パーン司祭が強い声を上げた。

「いーや、我慢ならねえ」

 ヘファイトはパーン司祭の言葉を背に浴びても、正面にオルフェを見据えたまま、振り向こうとさえしなかった。

「なあ、先生。なんでだよ。なんでそんなに落ち着いてんだ? オレには理解できねえよ。クロト、娘だろ? すげー可愛がってるじゃあねえか。スプーンの使い方が上手だとか、着替えも一人で出来たとか、いっつも自慢話ばっか聞かせてきてよ。助けたいよな? 違うのか?」

「――助けたいに、決まっている」

 オルフェは、心を絞るようにして、この言葉を声に出した。

 口にした途端、それまで堪えていた感情がひどく波立った。ピシリと亀裂が入ったかのように、胸に鋭い痛みが走った。

「そうだよな? それが当たり前だ。だったらなんでそう言わない。止めてどうするよ。このままクロトを森に放っておくつもりか? 居場所に見当がついたんなら、そこに迎えに行く。これほどの当たり前はねえだろ。なんでだ先生! なんで先生は、そんな単純なことが分からないっ!」

「私は――」

「お願い、もうやめて」

 テュケがオルフェの横から抱きつき、兄を庇おうとヘファイトに懇願した。ただヘファイトは、それでも気に留めようともしなかった。

 これ以上は耐えらえそうになかった。オルフェはもう、返す言葉を失い、ただ俯いた。

 激情が押し寄せる。津波のように心の堤防を越えようとしている。

 もう駄目だ――

 目の前が真っ白になった。


 パンッ!


 そんな中で、乾いたその音はごく控えめなものだったはず。なのに、やけに響いてオルフェの耳へと届いた。

 えっ? とオルフェは顔を上げた。そして見た光景に驚いた。

 呆気に取られるあまり、荒れたはずの感情が水面が凪ぐように、すうと平らになっていく。


 それはハルモニアだった。

 いつの間にだろう。ハルモニアが、オルフェとヘファイトの間に立ち、ヘファイトの頬を張ったのだ。

「あなたは一体、何をしているのです」

 髪の三つ編みがほどけ、らしくもなく身なりを乱したままの修道女シスターは、日ごろのオルフェに向けるものとすら比較にならないほどの冷たい声で、そう言い放った。

「分かっていないのは、あなたの方です」


 少々痩せすぎな彼女の張るビンタなど、ごつい体格の中年男にすれば、小さな羽虫に刺されたのにも及ばない程度だろう。

 それでも時が止まったかのように、ヘファイトは唖然としたままの表情で、固まった。

「シスター?」

 意外な人物の思わぬ行為に、オルフェもなんと言っていいのか、その後が続かなかった。

「司祭様が控えるようにおっしゃったのです。聞き入れてください」

 ハルモニアは凛とした声で告げて、髭面の頬を張った手をゆっくりと下した。

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