(四)ノ9
「確信が、おありなのですね? オルフェ先生は」
控えめであっても、彼女の凛とした声は良く通る。場にいる皆がハルモニアへと意識を向ける中で、オルフェは明確な意思を持って応えた。
「ええ、その通りです。シスター」
ハルモニアは切れ目の中の暗い色の瞳を短く伏せ、納得した様子で頷きを返した。
「そうかい」と、グライア婆が言った。
「なら、アタシは先生を信じるぞ」
対照的に老婆は、いつにも増してしわがれた声だった。表情にも日頃の冴えが無く、心労がそのまま顔の皺を深めたかのようで、今日は随分と老いて見えた。
ハルモニアがオルフェへの視線を外し、自身のすぐ前方に立つパーン司祭の背中へと顔を向けた。
「司祭様。オルフェ先生は既に、カロンさんに森の捜索に入ってもらっているとおっしゃいました。根拠もなく、無暗にはそうなさらないのでありませんか?」
背後に控えるハルモニアの進言を受けて、パーン司祭は、なるほどと呟いた。
「確かに尤もですね。先生、そうなのですか?」
「はい」
オルフェが認めると、エウリーケの体にぎゅっと力が入るのが、絡めた腕から伝わった。
「あのね、司祭様」エウリーケがオルフェに代わって応えた。
「今朝あの子、森に行くって駄々をこねたの。すごい大変だった。いつもはとても聞き分けが良い子なのに」
「クロトちゃんは、なぜ森に行きたいと?」
「それは……。分からないのだけど」
パーン司祭の問いかけに、エウリーケは首を横に振った。今度はオルフェが代わって応えることにした。
「ただ、もともとあの子は、私が森から連れ帰った経緯があります。それが何か、関係しているのかもしれません」
パーン司祭は、ふむと唸り、口元に手をやりながら思案顔になった。
するとグライア婆が何かに思い至ったようで、「ああ、それでか!」と声を張った。
「それで、かくれんぼ、そういうことかい。それならしばらく姿が見えんでも、時間が稼げるからの。なんじゃ、最初からそのつもりだったんか。本当に聡い子ぞ」
グライア婆は一人納得した様子で、しきりに感心している。そんな老婆を一瞥して、妹のテュケがオルフェへと顔を向けた。
「でも兄貴、やっぱり誰にも見られずにというのは無理がない? 森への入り口は一つしかないはずだよ」
「そ、そうっす。川の橋はいっつも見張りがいるっすよ。内緒で渡れっこないです」
テュケの呈した疑問に、ニクスが同調した。
なるほど、確かにそうだった。これにはオルフェも頷くほかなかった。
ムーサイの村とニンフの森をつなぐ道。それはレーテ川に架かる木造橋、ただ一つだけである。
村と森とを別つレーテ川は悠然として見えるが、それは川底深く、水量が豊かだからで、水の流れは相当に速い。
迂闊に入れば、大人でも容易く下流へと押しやり、陸生の森の獣が恐れて近付こうとしない程だ。
まして幼いクロトであれば、尚更泳いで渡れるはずもない。森に入るならば、必ず橋を渡る。
そしてこの橋は、川の最狭部に三十メートルほどの長さで架けてあり、森の獣が進入してこないか、物見櫓からの監視の目に途切れはない。
つまりクロトが森に入るのに、見張りが気付かぬはずがないのだ。
「それについてなんだけどね!」
少し離れた所から、女性のやや低く太い声がした。その場にいる全員が、その声の方へと顔を向ける。
見ると、それはイーオだった。恰幅の良い中年の彼女は、脇の下に息子のアルゴルの頭を挟み、締め付けながら場に加わってきた。
「先生、ウチのバカ息子、どうか切り刻んでやっておくれよ」
イーオは怒りの感情も露わに、まるでゴミでも扱うかのように息子を乱暴に放り投げた。
アルゴルは地べたへと勢いよく倒れ込み、それでもすぐに体勢を直して正座になると、「先生! すみません」と土下座をした。
「オレ、やらかしっちまったかもしれない」
オルフェは事情が呑み込めずにアルゴルを、そしてイーオを見た。彼女は鼻息を荒くしながら応えた。
「先生がクロトちゃんは森だって言い張るから、なら物見番だったウチの息子が見てなきゃおかしいでしょ? なのに何も言ってこない。だから問い詰めたんだよ。そしたらこのバカ、櫓の中で眠りこけて、見張りをしていなかったって」
「あっ」
オルフェは声を上げた。思い出した。そういえば今朝、オルフェがカロンと森に入ろうとした際も、アルゴルは居眠りをしていたのだ。
「このバカヤロウがっ!」
迫力ある怒声が響いた。発したのは鍛冶職人のヘファイトだった。
ヘファイトは肩を怒らせて足を引きずり歩くと、正座するアルゴルの前で仁王立ちになった。
「てめえは、なんてことをしやがったんだ!」
厳めしい髭面が、たちまち赤黒く染まった。ヘファイトは唾を散らしながら大喝すると、アルゴルの胸ぐらを乱暴に掴み、力まかせに引っ張り起こして高く持ち上げた。
「ちょっ! 苦し、ヘファ――」
首元が絞まり、宙に浮いた足をバタつかせてアルゴルは呻いた。ヘファイトの丸太のような太い腕を掴んで解こうとするが、抵抗が敵う相手ではない。
つまりアルゴルは、オルフェたちが朝に森に入った後も、寝たり起きたりを繰り返していたのだ。今日はずっと、物見番の交代時間になるまでをそうやってやり過ごしたのだろう。
だからクロトが橋を渡るのに、アルゴルは気が付かなかった。
ただそれならば、これはオルフェにも落ち度があった。
「ヘファイト」オルフェは宥めるように言った。
「私も、今朝はアルゴルが見張りが出来る状態にないと知りながら、それを諌めなかった。誰かに代わらせるよう取り計らうべきだった。だから私にも責任があるんだ」
「いーや、先生。そうやって庇うのはアルゴルの為にならん」グライア婆は手厳しく言った。
「いや、しかし」
「それにな、ヘファイトはなにも、クロトのことだけで怒っておるわけでないぞ」
「そうだよ」と、イーオも息子に容赦ない。
「橋の物見番はね、この村の安全を守る為に欠かせない役目なんだ。見張りを信じるからアタシ達は安心して農作業に精が出せる。家畜を放牧させられる。もちろんクロトちゃんが森に入るのだって防げたはずだよ。この息子はね、こんなにも大切な役割を疎かにしたんだ。いかに犯した過ちが大きいのか、それを分からせないと絶対にダメ。決してなあなあにして済ませるべきはないの。ヘファイト、構わないわ。遠慮なくやってしまって」
「おうよ!」ヘファイトがドスの効いた声で応じる。
「待って」
エウリーケがオルフェに絡めた腕を解いて離れ、ヘファイトとアルゴルの間へと割って入ろうとした。
「エウリー、聞いてなかったのか? こいつは――」
「ううん、それは分かった、分かったわ。アルゴルはしっかりと叱ってあげて。でもそれは後にしてほしいの。今はお願い、クロトのことを、クロトを――」
「あ、ああ……、そうか」
エウリーケの言葉に、ヘファイトは体に込めていた力を抜いた。手を離し、解放されたアルゴルは、ストンと落下してしりもちをついた。
「そうだったな。頭に血が上っちまった。すまねえ、エウリー」
「ゴメンね、ヘファイト。我儘を言って」
エウリーケはヘファイトに応えると、それからアルゴルの傍らで、自らの膝を抱きかかえるようにして屈んだ。
「大丈夫? アルゴル」
地べたにへたり込み、激しく咳き込む若者を、エウリーケは優しく気に掛けた。
「ゴメン、なさい。エウリーケさん、あのオレ、本当に……」
アルゴルは言葉を咳で詰まらせながら、それでも必死に謝った。エウリーケは、ううんと首を横に振り、アルゴルの顔を覗き込むようにして、口元に微かな笑みを浮かべて見せる。
「イーオおばさんも、ヘファイトもさ、すっごく怖いよね。私、子供の頃にこっぴどく叱られたのをよく覚えているわ。ね、アルゴル。あなたも目一杯に怒ってもらうのよ」
「……はい」
アルゴルの返事は、感極まり声が上擦ったものだった。オルフェの目には、この若者はもう、充分に反省しているように見えた。
「ったく、もう。エウリーちゃんは――」
イーオはくびれのない両腰に手をやり、呆れたように呟いた。エウリーケの甘さに気勢をそがれたらしく、二人を見つめたまま、やれやれと鼻から息を抜いた。




