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(四)ノ7

 オルフェは懸命に走った。息はすぐに上がったが、苦しさはなかった。逸る気持ちが上回っていた。

 診療所への道すがら、物陰から顔を覗かせた村人たちからは幾度となく声をかけられた。そのどれもがオルフェを気遣い、クロトの行方を案じるものだった。

 皆がそれぞれの仕事や都合を放ってまで、クロトを探してくれているのだ。オルフェも本来であればその都度、足を止めて感謝の気持ちを伝えたはずだった。

 だが、そうはしなかった。心にその余裕がなかったのだ。

 今はとにかく診療所へ、エウリーケの元へと、そればかりが心を占めており、申し訳ないと思いつつも、ただ目礼を返して走り過ぎるだけだった。


 そしてオルフェは駆けながら、己の甘さを痛感していた。

 何が覚悟の上なのか――

 いつかクロトが居なくなるかもと、その可能性を認めておきながら、結局は直視を避けてきた。だから、いざ実際にその場面に出くわすと、こんなにも動揺してしまう。

 そしてその上で自覚もした。心に靄がかっていたものが晴れ、自分の思いが今はっきりと分かった。

 これから先もずっと、クロトと離れるつもりがないのだと。


 なんて欲深いのだろうか。オルフェは自分に向けて苦笑した。

 最初はクロトが居てくれるのなら、その間限りのつもりだった。

 多くは望むまい。何年も子供を授からなかったのだ。だからひと時でも親になれたのなら、これは自分たち夫婦には充分に過ぎたもの。

 この先、あの子と別れる時がきても、しっかり見送ろうと――。そう決めていた。

 なのに今はもう、あの子が与えてくれる幸せを手放せないでいる。

 クロトとエウリーケと三人で、一緒の毎日を積み重ねていく。そんななんてことのない平穏さが、何にも代えのないものになっていた。

 そう気付いてしまった。


 丘の上へと駆け登る。礼拝堂の鐘塔は、村のどこからでも目につきやすい。此処まで一心不乱だったが、急勾配の坂道にオルフェの体が悲鳴を上げた。

 脹脛が怠く、心臓が早鐘を鳴らす。酸素をより求め、気道を確保しようと顎が上がった。

 姿勢が乱れると一気にペースが落ちた。ただそれでも足を止めなかった。

 もはや歩くのとさして変わりない速さだが、懸命に走り続けた。

 そしてようやく礼拝堂の傍らにある、石積みの白壁に、臙脂色のスレート屋根の建物が近付いてきた。

 あともう少し。オルフェは先が見えたことで力を振り絞り、もう一度、足の運びを速めた。


 するとオルフェが到着するより前に、診療所の中から栗色の髪をした長身の女性、エウリーケが飛び出してきた。

「ああ、オルフェ――」

 ずっと窓に張り付いて、外の様子を伺っていたのだろう。エウリーケは真っ直ぐに駆け寄り、そのままの勢いでオルフェへと飛び込んでくる。

「ゴメンなさい、オルフェ。本当にゴメンなさい。クロトが、私、私……」

 彼女の声は枯れていた。オルフェの全身は汗で濡れていたが、エウリーケは構うことなく肩口あたりに顔を埋めてきた。そして謝罪の言葉を何度も繰り返した。

 オルフェは乱れた呼吸を無理やりに押さえつけながら、彼女の背中へと腕を回し、そっと抱き止めた。緩くウエーブした髪を、優しく撫でる。

「エウパボとイーオおばさんに聞いたよ。今、村の人が探してくれているって」

「でも見つからないの。ねえ、どうしよう、オルフェ。あの子、見つからないの」

「うん」

 オルフェは頷き、エウリーケの後ろ頭を撫で続けた。大丈夫、きっと大丈夫と、耳元に囁いた。少しでも彼女の心を慰めたかった。


「ねえ、エウリー?」

 オルフェはエウリーケの息遣いでタイミングを計り、そっと話しかける。何かを感じ取ったのか、腕の中のエウリーケの体が、ピクリと強張った。

 今の彼女には酷かもしれないが、それでもやはり訊いておかねばならない。もちろんクロトの件についてだ。

 ニンフの森には既に、カロンに探しに入ってもらっているが、オルフェが分かっているのは、クロトがいなくなったという一点のみしかない。だからその時の状況を知る必要があった。


「何があったのか、だよね?」

 エウリーケはオルフェから少しだけ体を離して、顔を上げた。散々に泣いたのだろう。細めた目の縁が腫れ、鼻頭や頬が赤くなっていた。

「話してくれる?」

 オルフェはその痛ましい姿に眉をひそめながら、それでも彼女を促す。


「先生、ボクが悪いんです」

 エウリーケが口を開くよりも前に、彼女の後方から声がした。

 診療所からエクニオス少年が、グライア婆の背に手を添えながら出てきた。さらにその後ろからは、鍛冶職人のヘファイトも、びっこを引きながら続く。

「すまねえ、先生。うちの坊主がよ」

 オルフェはエウリーケへと顔を戻した。エウリーケは大きく首を横に振った。少なくとも彼女は、エクニオスの所為とは思っていないようだ。

「エクニオス、どういうことか聞かせて」

 オルフェが説明を求めると、ヘファイトが「ほら」と、息子の背中を小突いて促した。

 エクニオスは一歩前へと押し出され、固い表情で頷く。


「今日は診療所が休みで、先生は森に入るだろうから、ボクがクロトちゃんの遊び相手になろうと。クロトちゃん、かくれんぼがしたいって、それで――」

「先生、先に言っておくが」と、グライア婆がエクニオスを遮り、割って入った。

「アタシはエウリーと、クロトの服の仕立直しをしておったがの、エクニオスはかくれんぼは診療所の中でだけと、そう、しっかり言い聞かせておったぞ」

 グライア婆はエクニオスを庇おうとした。そうせずにいられない程に、エクニオスは責任を感じていたようだ。

「お婆、いいんだ」

 ただエクニオスは、それを良しなかった。自分の役目を果たすべく、「それで、クロトちゃんが――」と続きを話そうとした。

「兄貴!」

 そこに今度は、別の声が被った。


 声の方へと顔を向けると、礼拝堂から妹のテュケが姿を見せた。

「すまない、エクニオス。少し待ってもらえるか」

 オルフェは軽く手を挙げてエクニオスに断りを入れ、とりあえずテュケを迎えることにした。

「兄貴、もう聞いたよね? クロトちゃんが」

 テュケは傍まで駆け寄り、不安そうな表情で言った。オルフェが小さく首肯すると、妹は顔を伏せた。

「礼拝堂、探したのだけど、いなかった」

 日頃は勝気に振舞う妹だが、今は彼女の本質の気弱さが表に出ていた。

 テュケは深く息を吸い、オルフェを見上げた。大きくて吊り上り気味の目。薄い幕を張るように濡れた瞳が、傾き始めた午後の陽光を写し取り、揺らいでいる。

 テュケは一歩前へとにじり寄ってきた。

 衝動的に兄に縋りたかったのだろう。だが、そこにはすでににエウリーケがいた。

 テュケは気付いて思い止まり、そして静かに息を抜いた。


 続けてパーン司祭が下男のニクスと、助祭のハルモニアを伴って現れた。エクニオスに話を進めてもらいたいのだが、もうしばらく中断の形となりそうだ。

「先生、戻られましたか」と、パーン司祭もさすがに固い口調だった。

「司祭館や貯蔵倉庫に墓地と、探せる所は隈なく探したのですが……」

「どうやらクロトちゃん、教会の中には隠れていないみたいっす」

「そうですか……。ありがとうございます。この度はご面倒をおかけしまして」

 パーン司祭とニクスの報告を受けて、オルフェは微かに落胆しながらも、頭を下げて感謝した。

 エウリーケもそれに倣った。彼女はオルフェから身体を離して姿勢を正し、言葉無いままに腰を深く折る。

「なにをこんな時に」パーン司祭は垂れ下がり気味の目をむいた。

「そうっすよ、水臭いこと言いっこなしです」

「エウリーケさん、あなたもお直りなさい。今は私たちに気など使っている場合ではありませんよ」

 パーン司祭に促され、エウリーケは消え入るような声で、「はい」と応えて顔を上げた。


 ハルモニアはというと、彼女は無言だった。パーン司祭の背後で、無表情にそっぽを向いていた。

 だが彼女の髪は、三つ編みがほどけ乱れていた。頬が薄く汚れている。煤だろうか。ならば暖炉の中にまで潜ったのかもしれない。

 オルフェを快く思わないはずの彼女ではあるが、それとは別で幼い子の身を案じ、彼女もまた、一生懸命に探してくれていたのだ。

 そうと気付いた途端、オルフェはクロトがいなくなったのだと、何故かこの時になって、本当の現実味に襲われた。

 いきなり感情が昂り、どうしようもないほどの不安に鼻の奥がツンと痛くなった。


 オルフェは大きく息を吸った。溢れそうになる何かを必死に堪えた。

「シスター、あなたも、ありがとう――」

 声が震えないように喉を固く締め付けながら、オルフェはハルモニアに心からの感謝をした。

 ハルモニアは短く視線を寄越し、そしてすぐに逸らしてしまった。


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