(四)ノ6
オルフェとカロンは、ニンフの森からムーサイの村へと戻った。日が暮れるにはまだ間のある、いつもより早い時間だった。
木造橋を渡ると、すぐに村の雰囲気がいつもと違うことに気付いた。農作業に精を出しているはずの村人の姿が畑にない。小道を駆け回る子供も見えなかった。
「先生、帰ってきたか」
頭上の物見櫓から声が降ってきた。見ると角ばった顔の中年男が手摺から上体を乗り出している。
「え? エウパボ?」
オルフェは意外な人物に声を上げた。エウパボはアルゴルの父親で、イーオの夫である。
物見役は村の若者たちが担っていて、エウパボはもうとっくにお役御免の身である。櫓に上ることは、もう十年以上はなかったはずだ。
「おーい! イーオ、先生だ。先生が帰ってきたぞっ」
エウパボはオルフェたちから視線を移し、櫓近くの小さな丸太小屋の方へと声を張った。
この丸太小屋は、物見役が交代の前後に食事や仮眠をとる為に建てられたもので、そのドアがいきなり、勢い良く開いた。
小屋の中から、ぬっと恰幅の良い女性が姿を現す。
「先生っ!」
イーオはオルフェたちの姿を認めると、すぐに駆け寄ってきた。
「おお、イーオ」カロンが両手を広げ、破顔しながらイーオを迎え入れる。
「今朝に頼んだパン。予定より少し早いが、どうだ? もう焼け――」
「バカッ! それどころじゃあないよ」
イーオがいきなり叱りつけてきた。日頃の陽気さはまるでなく、思わぬ迫力に気圧されたのか、カロンは「な、なんだよ、一体……」とたじろいだ。
「イーオおばさん、村の様子が変な感じだけど、何かあった?」
オルフェは周囲を見渡しながら訪ねた。何だろうか、村の空気が慌ただしい気がする。
「ああ、先生! あ、あの、落ち着いて、聞いてね」
その前置きに何やら嫌な感じがした。イーオの表情がひっ迫していたからだ。
オルフェは「――うん」と、頷いて身構える。
「あのね、クロトちゃんね、いなくなっちゃたの」
「いなくなった?」
咄嗟に返したが、オルフェはすぐには理解が出来なかった。
数秒を要して、頭が言葉の意味を吸収し始めると、心臓がドクンと高く鳴り、それを合図に身体が熱くなった。感情が一気に散らかった。
「な、なあ、イーオ」
動揺するオルフェに代わり、カロンが声を張った。
「嬢ちゃんがいないって、どういうことだよ? それ」
イーオは、分からないの、と首を大きく横に振る。エウパボが櫓の上から代わりに応えた。
「エウリーがな、血相を変えて、娘が消えたって。だから皆で探しているんだ。もう結構な時間が経つが……、でも、まだ見つかってないみたいだ」
オルフェは、そうかと気付いた。それで村人の姿が見えないのだ。
目につきやすい場所はもう探した後なのだ。後は建物の隙間や、水車小屋や貯蔵庫の中。草の茂み、積み上げた干し草――。村には、子供を隠すものがいくらでもある。
腰が悪く身軽に動けないエウパボが臨時で見張りを代わり、他の村人たちは、今はそういった場所を探してくれているのか。
だが、違う。
オルフェはすぐに心当たりに至った。いくら村の中を探しても、クロトは見つかりっこない。
「森だ」
オルフェは呟いた。今朝に感じた不安。それは遠い先の、いつかのことと思っていた――。
なのに、こんなにも早く訪れるというのか。
矢も楯もたまらずに、オルフェは踵を返して駆け出そうとした。
「待てって!」
しかし、いきなり一歩目でカロンに腕を掴まれた。
「先生、どこに行くつもりだ?」
「離してくれ、カロン。森だ。クロトは森に入ったんだ」
カロンの顔には八本の赤い筋が、未だに薄らと残っていた。クロトが森に行きたいと駄々をこね、引っ掻いたものだ。
「森? いや、そんなバ……」
言いかけて、カロンは言葉を詰まらせた。今朝の診療所での光景を思い返したようだった。
腕を捕まれていた力が弱くなり、オルフェはその隙を突こうとした。
「おい、カロン! 何してる。先生を止めろ!」
エウパボが怒鳴った。その怒声にカロンは気を取り直し、素早くオルフェの前へと回り込んで行く手を立ち塞ぐ。
「だから待てって、先生。落ち着くんだ。やっぱりよ、子供が森になんて、そんなの普通ありえないだろ?」
「そうよ、先生。なんで森だって決めつけんの?」
事情を知らないイーオが当然の疑問を口にするが、オルフェは構わなかった。肩に掛けようとするカロンの手を邪険に払いのけ、その脇を抜けようと試みる。ただカロンのほうも、頑として道を譲ろうとしない。
オルフェは苛立に表情を険しくした。
無茶は承知だ。だが、もしクロトが森に入ったのであれば、いつ獣に襲われてもおかしくない。いやあるいはもう既に――。
想像するだけで身の毛もよだつ。とにかく一刻も早く、クロトの元に駆けつけなければ。
気持ちが急いた。だから行く手を阻むカロンに対して、オルフェは感情を隠すことなく声を尖らせた。
「どけてくれないか? カロン。今は押し問答している時間も惜しい。私は森に探しに行く」
「分かったから、先生。分かった。でもお願いだから、ちょっと待ってくれ」
何が分かったというのか。カロンの懇願に、オルフェは動きを止めた。カロンは鼻から息を漏らし、「いいよ、先生」と言った。
「森にはよ、オレが独りで入る」
「いや」
オルフェは即座に首を横に振った。これは親としての自分の責務だ。
「クロトは私の娘。これは私がすべきことだ。キミにそこまでする義理はないよ」
すげなく返す。途端に、カロンの表情が強張った。
「義理がない? 何だよそれ。よくそんな薄情が言えるな。ショックだぜ、先生。こういう時だからこそ、オレを頼りにしてくれると思っていたんだがな」
カロンもまた苛立ち、乱暴に後ろ頭を掻いた。
「いいか? 先生が森にどうしても行くというのなら、オレも付いて行く。ダメだと言っても勝手にそうする。だがよ、オレはこーいう性格だから回りくどいのは苦手だ。だからはっきり言っちまうが、森で探し回るのなら、オレだけのほうがよほど効率的だぜ。草花を探すのとは訳が違うんだ。先生はな、居てもらっても正直、足手纏いなだけだよ」
ぐっ、とオルフェは言葉にならずに呻いた。カロンの言葉に強い反発心を抱いた。
ただ同時に分かってもいた。確かにその通りだと。カロンが正しい。それでも今は、その正しさを受け入れられるだけの余裕がなかった。
オルフェは厳しい目で睨み付ける。もちろんカロンが、その程度で怯むわけがない。
「ちょっと、いいかい?」
張り詰める空気を断ち切ろうとしてか、イーオが割って入った。
「よく分からないけど、なにかそれなりの根拠はあるのだね? クロトちゃんが森に入ったという」
オルフェはカロンを見据えたまま、小さく頷いた。「そうかい」と、イーオは言った。
「じゃあ、カロン。面倒かけるけどアンタ、森に探しに行っておくれ」
「イーオおばさん」
オルフェは不服に思い、イーオに顔を向けた。真ん丸な輪郭に、愛嬌があるはずの小さな丸い目が、今は厳しくオルフェを見上げていた。
「先生、らしくないね。クロトちゃんを思うのなら、変な意地を張ってどうすんのさ? 冷静にって、そりゃあ難しいかも知れないけど。それでも意固地になるのはダメ。森に入ったというのも、本当に絶対だと言い切れる? それ以外もあり得るでしょ? だったら森はカロンに任せて、先生は他にすべきことをしないと」
「他にすべきこと? クロトを探す以外に?」
「もちろんクロトちゃんを見つける為によ。まずは何より、エウリーちゃんの元へ行っておやり。迷子はアタシらでも探せるけど、これだけは先生にしか出来ないのだから」
イーオに諭されて、オルフェはハッとして気付いた。
ああ、そうか――、そうだった。
己の迂闊さに、額に手をやる。
クロトを探すことばかりが頭にあり、エウリーケの気持ちを思い遣れていなかった。この状況下で、エウリーケが傷つかぬはずがないのに。
彼女が今、どれほどに心を細くしていることか――
「ほれ、先生。しっかりおし」
イーオの厚みのある、カロンを虜にする絶品のパンを生み出す手に、バンッと背中を強く叩かれた。その衝撃に、オルフェは背筋を反らすようにして伸ばした。
おかげで自分を取り戻せた気がした。オルフェは小さく苦笑した。
「ゴメンね、イーオおばさん。ありがとう。そうだね、確かにおばさんの言うとおりだ」
イーオはほっとした表情になって、なんのなんのと首を横に振った。
「先生、少しは頭冷えたみたいだな」
見計らったようにカロンが口を挟んだ。イーオは「なんだい」と、呆れ声を上げる。
「アンタ、まだいたのかい。さっさと森へお行きよ」
「いや」と、カロンは拒否した。「オレは先生の口から聞きたい」
真っ直ぐに見据えてくる目に、オルフェは「ああ、そうだね」と頷いた。そして、深く頭を下げた。
「カロン、先ほどはすまなかった。私が間違っていた。どうか、クロトを探しに森へ入ってもらえないだろうか?」
顔をあげ、目を向けるが、カロンは静かに首を横に振った。違うらしい。どういうことだろうか、オルフェは考えた。
そして気付いた。そうか、と分かった。咳払いを一つした。
「カロン、頼んだよ」
オルフェが言い改めると、カロンは口の端を上げ、にやりと笑う。
「おう!」
これ以上にないほど単純な一言。まさに快諾だった。
きっとこれは大切なことなのだ。これから先も、二人の間で何度も繰り返し交わしていくはずのものだから。
「まかせな、先生。じゃあ行ってくるわ」
カロンが踵を返そうとすると、「おい、カロン」とエウパボが頭上から呼び止めた。
何かの小さな包みが放り投げられる。カロンはそれを片手で受け取った。
「そいつを、腹に入れとけ」
包みの中身はパンのようだ。
「焼きたては、アンタが返ってきたら用意するよ。今回はタダにしておく」
イーオが言うと、カロンは小さく笑って頷いた。そしてエウパボに向けて手を上げて応えると、出てきたばかりの森へと向かって駆け行った。
オルフェは、申し訳なさと感謝の思いを混ぜながら、その背中を見送った。
そして心の中で祈った。どうか、クロトが無事でありますようにと。
カロンの姿が見えなくなり、オルフェは傍らのイーオへと尋ねた。
「イーオおばさん、それでエウリーは今、どこに?」
「診療所にいる。待機していなさいって、お婆が……」
「そう」オルフェは頷いた。
「ほら、お行きよ」
イーオに促され、オルフェは感謝の念を込めて応える。
「イーオおばさん、ありがとう。行ってくるよ」
オルフェもカロンとは反対側の道を、診療所に向けて駆けて行った。




