(四)ノ5
せっかくニンフの森に入って、蜂蜜だけを採って帰るわけではない。当然、本来の目的である薬草も探し求めた。
ただ今日はもう、森の奥に行くのは止めて、早めに戻ろうと決めた。ホシユキノシタも以前に群生地を見つけたので、不足する心配がなくなっていた。
オルフェは歩きながら黄色い花を見つけ、オトキリクサを摘み取った。
これはニンフの森の中では、簡単に採れる薬草の一つである。血止め草とも呼ばれ、名前の通りに止血が主な用途となるが、腫れや鎮痛にも効能があった。
手に入れやすい上に使い勝手も良いので、薬師にとってはとにかく有り難い存在だ。
「先生さ」と、カロンが言った。
機嫌の良さはそのまま声に表れている。ただ今はもう、緩んではいなかった。蜂蜜を手に入れたので、もう後は今夜のお楽しみにと、とりあえずは落ち着いた様子だ。
「まだ時期でもねえのに、蜂蜜を採ろうと思ったのって、やっぱり嬢ちゃんの為、だろ?」
「ん? ああ、まあ……」
オルフェは頬を指で掻きながら認めた。やはり、見透かされていた。
「私は甘いかな? クロトに」
仕方ないとはいえ、あんなにも駄々をこねた森に連れてやれないのが、可哀そうだった。だからせめて蜂蜜を持ち帰り、クロトを喜ばせてやろうと考えたのだ。
「いや、別に良いと思うぜ。そんなもんじゃあないか? 親って」
カロンは周囲を見渡し、獣の気配を探りながら応えた。
「そうかな」オルフェは小さく苦笑する。
考えてみれば、これまで蜂蜜を個人的な用途に使ったことがあまりなかった。
採取した内の半分は、護衛を務めてくれるカロンに渡す。そして残りの半分も、喉を腫らした患者に薬と一緒に舐めさせたり、エウリーケは牛のミルクを混ぜた飴玉を作り、診療所を訪れる村の子供たちに配った。
だからなのだろう。今日の採取にミツバチに対して罪悪感を覚えたのは。村の人の為という大義名分がなかったから。
「ん?」
オルフェは気付いて、すぐに気を張った。小刻みに空気を震わす羽音。いきなりそれが大きくなった。
木の幹の影から、突如として現れたのは巨大な蜂、キラービーだ。ホバリングしながら、一対の複眼と三つの単眼がオルフェを捉え、威圧的に睨み付けていた。
キラービーは昆虫型の獣で、非常に好戦的な肉食の殺人蜂だ。人の皮膚を簡単に喰いちぎる強靭な顎と、致死性の高い神経毒の針を持ち、体は昆虫としては異様なまでに大きく、人の頭部ほどもある。
出合がしらの突然の恐怖に、オルフェは辛うじて耐えた。迂闊には動かずに、真っ直ぐにキラービーを見据えた。
同じ蜂でもミツバチとは違い、その姿は鋭角に描かれ攻撃的。見る者の本能に強い警鐘を鳴らさせる。
オルフェは目だけを左右にやり、周囲の様子を探った。今いるのは、どうやらこの一匹だけのようだ。そして攻撃してこないところをみると、この蜂は偵察役なのだろう。オルフェはそう当りをつけた。
攻撃力に優れるキラービーだが、実は巨体故に飛行能力はさほどでもなく、俊敏性に欠ける。
なのでまずは偵察蜂が獲物を探して回る。そして標的を見定めると引き返し、十から二十匹程の仲間を連れて戻ってくるのだ。
つまりこの蜂を逃せば、次は必ず集団で襲われる。なので絶対に、この場で仕留めねばならなかった。
オルフェはゆっくりと腰の後ろへと手を回し、短剣の柄を握った。静かに息を整え、仕掛けるタイミングを計った。
息を吸い、覚悟を決める。
と、その時だった。
いきなり視界の端から、ダガーナイフが飛んできた。
銀色の刃が薄暗い森の頼りない光に反射し、それはキラービーの体を正確に貫いて串刺しにした。
そしてそのままの勢いで木の幹へと突き刺さる。トン、と乾いた音が響いた。
投げたのはもちろん、カロンだ。
キラービーは薄い四枚翅を激しく動かし、顎をカチカチと鳴らしてもがいた。仲間に助けを求めているのかもしれない。
カロンは無表情に歩み寄ると、柄を握ってダガーナイフを木の幹から引き抜いた。ボトリと地面に落ちたキラービーの頭部を、容赦なく踏み潰す。
死骸となった殺人蜂を見下すカロンの目は冷徹に見えて、しかし明らかな怒りが宿っていた。理由がある。
それはこのキラービーが、ミツバチにとっての天敵だからだ。それも巣を襲う。
ミツバチの成虫は殺し棄て、ひたすら幼虫ばかりを喰う。キラービー一匹だけで、数千匹規模のミツバチの巣が、あっという間に殲滅してしまう。
養蜂場の巣を藁から木箱に変えたのも、このキラービーからミツバチを守る為だった。それでも絶対に安全とは言い切れない。
なので蜂蜜を愛するカロンは、このキラービーを不倶戴天の敵と嫌っているのだった。
カロンはダガーナイフを腰ベルトに納め、そのまま茂みの奥へと入り込んだ。周囲を見渡し、そして警戒を解いた。「先生、大丈夫だ」と言った。
「こいつの仲間は近くにいない。他の獣の気配もないな。安心して探してくれていいぜ」
「ああ、ありがとう」オルフェは頷いた。さっそく腰をかがめて、薬草の姿を求める。
そして、ふと気になった。
そういえば、カロンに子供はいるのだろうか、と。
彼の三十という年齢を考えれば、いてもおかしくない。ただカロンの口からは、一度もそう言った話が出たことはなかった。
オルフェは顔を上げ、カロンを見た。
カロンがこの村に居つくようになって一年。あえて聞くような真似はしてこなかったが、実は彼のそれ以前を何も知らない。
視線に気付いたカロンが振り向いた。
「どうした?」と、屈託のない表情で向けてきた目に、オルフェは小さく首を横に振って、なんでもないと返した。
カロンの革鎧の下の背中には大きな傷がある。森を抜けた木造橋の前で気を失い、倒れていた。その傷は未だに生々しいままだ。
獣にやられたのだと――。
オルフェはそれが嘘だと分かっていた。
カロンのこれまでがどうであったのか、オルフェは少しだけ、それが気になった。




